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2012年11月25日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-87-
私達は、表現をこれらの外的な抑圧からも解放しなければならないはずである。
このとき、まず私達に可能なのは未来にむかって自己を開示する新しい人間関係の創造であるように思われる。諸制度のすべてが、マンハイムが規定したように、現実的規範としてのイデオロギーとして機能しているとき、内的な現象はイデオロギーを乗り越えるべく準備されなければならない。この準備状態は新しい人間関係によって現実に形づくられるのであろうことを私は想像する。
ところで、福岡安則も指摘するように、サルトルが『弁証法的理性批判に』において、無力さを刻印づけられた「集合態」のさなかから「蒙らされる全体性」という契機によって噴出した「自由の突然の復活」としての「溶融集団」が、「誓約集団」へと転態し、そしてさらに「組織集団」へ、ついには「集合態」と同じ集列的多様性の規格において構成される「制度集団」へと再転落していく過程を緻密な論理によって明らかにしていることは周知のことである。
だが、私達の内的な要請はこのようなサルトル的モデルとは異なった共同性を志向しなければならないことを前提としている。現実に経済的・政治的存在としてある外的な抑圧のただ中で新しい人間の関係、あるいは<運動>を創出することの困難さは、恐らくどのようにも形容できないものであるはずである。しかし、だからといって新しい<非権力の状況>に基づく人間の関係性を遠い遠い夢想の世界に措定することはむしろ有害である。私達が表現行為というものを世界定位に対してマニフェストするとき、創造力とはユートピアを現実的世界へとひきよせる現実的な力であると断言することができるのだ。
(Ⅱ表現論/私的詩人考つづく…)