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墨岡通信

成城墨岡クリニック分院によるブログ形式の情報ページです。

2024年07月25日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ -3-

私達の外在的状況をめぐる甚だしい失語の雪崩れの中で根源的に問われ続けているのは、その重量に耐え得るだけの確かな内部の声であると私は思う。例えば、私にとってどのようにも避けて通ることの出来ない数多くの出来事がある。かつて吉本隆明はスターリン批判、そして六十年以後の思想的営為を「前衛」と「自立」とに裁断してみせたが、吉本隆明自身の壮絶な、いわば地滑り的苦闘にもかかわらず、そのおぞましい「自立」の声は「前衛」の喪失という外部の季節風の中で、幾多の証言をおきざりにしたまま現実によって確実に先取りされてしまった。その苦闘の過程で、吉本隆明は、六・一五被告、常木守の特別弁護人となり、「思想的弁護論」を書いた訳だが、

「わたしは、この裁判の公訴の対象となっている昭和三十五年六月十五日の国会南通用門における共産主義者同盟の主導下の全学連学生と警官隊の第一次衝突に、まったく偶然の事故から参加しえなかった。もちろん時間を遅延させる事故がなかったならば当然参加していたとかんがえる。したがって、わたしは、この裁判の公訴にたいして架空の被告としての思想的連帯をもっている。」(「思想的弁護論」)
と述べる吉本隆明の立場と、
「(その後)五年の間に、この理念上のスクラムはとことんまで解体してしまったのです。ほとんど被告の数と同盟の立場にまでね。」(常木守『日本読売新聞』42・7・3)

と自嘲的に語る常木守の立場との激しい落差の本質は一体何なのだろうか。恐らくは、次に私達の世代が経験した新しい闘いの上昇とその没落はこの放射線状にあるように思われる。だからこそ、この事柄の本質をとらえ得ない限り、私は私自身のものとして安易に「自立」を語ることは出来はしない。

(Ⅰ詩人論/『望郷と海』覚え書 つづく…)

2024年06月27日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ -2-

『望郷と海』覚え書

おびただしい失語状態とも言うべきものが確かに私たちをとりまいている。逼迫した言語をもって<この苦渋!>と、言葉するとき、私達の感性の総てはある一点を指し続けたまま凍結してしまう。厳として存在する巨大な流通機構と権力と権力構造。その背後に巧妙に位置する影の機構。<対峙せよ!>と、沈黙の内に決意するとき、私達は既にいささかの展望も、いかなる効果も期待していない。私達の根拠を問うとすれば、それは唯一拙劣な国訛でしかない。おそらくは人間にとってぬぐい去り難い魂の国訛。


『望郷と海』は、かつて「私にとって人間と自由とは、ただシベリヤにしか存在しない(もっと正確には、シベリヤの強制収容所にしか存在しない。)日のあけくれがじかに不条理である場所で、人間は初めて自由に未来を想いえがくことができるであろう。」と記した石原吉郎の、東シベリヤ、カラカンダ第二刑務所での認識と生命の存在を反芻する軌跡である。

石原吉郎の表現行為のほとんど極小の片々にしか触れ得ないと思いながら、例えば石原吉郎が次のように述べるとき、私は激しい感動に襲われる。

「ジェノサイド(大量殺戮)という言葉は、私にはついに理解できない言葉である。ただ、この言葉のおそろしさだけは実感できる。ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかに、ひとりひとりの死がないということが、私にはおそろしいのだ。人間が被害においてついに自立できず、ただ集団であるにすぎないときは、その死においても自立することなく、集団のままであるだろう。死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものだ。」(「確認されない死のなかで」)

石原吉郎の詩と多くの散文はただ<表現>としか言いようのないものである。それは本質的に人間の<表現>であってそれ以外のなにものでもあり得ない。

(Ⅰ詩人論/『望郷と海』覚え書 つづく…)

2024年05月24日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ -1-

「見果てぬ夢の地平を透視するものへ」

詩の世界社より1976年に発行された墨岡先生の著書「見果てぬ夢の地平を透視するものへ」を本日より再掲載します。
20代の頃の墨岡先生が何年間にわたり書き綴ってきた小文をお楽しみください。


Ⅰ詩人論

私の表現にとって、避けて通ることのできなかった幾人かの詩人について述べた小文をほぼ年代順にならべた。この間に私の方法論も変化したし、私をとりまく状況も変化した。その意味では、まず何よりも私自身の<状況論>を註としてあげなければならないかも知れないが、そのための客観化もいまは不可能に近い。いずれにしても、まだ私にとっての現象的苦渋は過ぎ去っていない。
「山本太郎論」の各章は、かつて「山本太郎論のためのノート」として、独立して別々に発表したものである。

(Ⅰ詩人論 つづく・・・)

2024年02月26日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-209

精神医学は状況論のなかでその大きな翼をひろげなければならない。既成のあらゆる症候論をはなれて、まず個人の状況を論じる学問でなければならない。そうでなければ、<精神障害者>としてレッテルをはられ、ほとんど一生を精神病院の闇のなか、「治療なき拘禁」のなかに葬り去られてしまう人達の魂は永遠に浮ばれることはない。

私は、状況論としての精神医学の措定のなかでことさらに、精神障害の原因論に触れないできた。このことは状況論が原因論として定立しないということを意味するものではない。しかし、状況論が原因論的領域にまで<学>として到達するまでにはまだ多くの検証を必要とするであろう。そして、まずその前に私達は精神医学とそれが果し得た医療という大状況の変革を切実に問われているのである。私達の異議申し立ては寸時も休息を許されないのである。

(Ⅴ状況のなかの精神医学/状況のなかの精神医学 終)

2024年01月22日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-208

こうして、もとにもどることのできない大きな流れがまきおこってきた。精神医療のいままで行ってきた<治療なき拘束>がはじめて白日の下で明らかにされたのである。

さまざまな苦悩に満ちた運動の成果として、一九六九年には精神病院入院に関して大幅な人権の尊重とその擁護を認めたカリフォルニア州新精神衛生法がうまれた。現在の私達の目からみればこの衛生法も多くの妥協を含んでいるとはいえ、確実にその後の精神医療変革の運動の原点となったのである。

一九七一年にはM・P・L・Pが精神障害者の権利に関する決議を発表した。(Mental Patient’s Bill of Rights。)

一九七二年には、カリフォルニア州新精神衛生法以后のより具体的な到達点として重要な意味をもった合衆国連邦裁判所判決としての所謂、精神障害者に十分な治療を与えるための最低限の合意的基準がなされるに至ったのである。

このような司法精神医学の新しい地平はますます拡大しつつある。無論、それだけ反論もさかんになり、議論の幅も拡大されているのであるが、どのような議論をとってみても、そこには過去の精神医療がかかえ込んだ巨大な暗黒と矛盾とが浮び出されていて問題のおぞましさを感じさせる。

日本においても、精神医療をめぐる法律問題はいくつかの形式で実行に移され、多くの場所で精神医療へ鋭いメスを入れる役割を果している。いくつかの精神病院不祥事件の裁判、入院をめぐる法的解釈の問題、保護義務者をめぐる解釈、また直接に精神衛生法そのものの概念を検討する動きもさかんである。精神神経学会の衛生法小委員会の活動なども一つの成果と考えてよい。

しかし、総じて我が国の法律論争はまだ、不祥事事件の処理といった個別的論争に主力が注がれて、司法精神医学を社会精神医学的に措定し、具体的な変革を手にするまでにはまだまだ解決しなければならない問題が山積みされており、私達を含めてあらゆるところからの努力が要請されているのが現状である。

(Ⅴ状況のなかの精神医学/状況のなかの精神医学 つづく…)

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