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2025年11月27日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-13-

現在、いまだ新しい現代詩の運動体はどこにも存在しない。これは<表現>にとってさえ実に異例なことではないか。現代詩ほど旧式な表現論しか持ちあわせてはいない私達の表現の形が、他にあるだろうか。現代詩には真に時代との緊張関係を露呈させるものは実にわずかな存在でしかないのである。

山本太郎の存在する位置はこうした困難な問いかけをまる捉えしたところにある訳で、彼自身のおびただしい、叫びにも似た問いかけの言葉は単に山本太郎の詩、一篇の詩の完成のためにある訳ではない。

ある日とつぜん
私は旅をはじめていた
鞭のように鳴る肉体を過ぎ
恋のめまいを過ぎ
蜜の巣の子供達を過ぎ
四○年歩いていつのまにか
夕焼のようにひろがる
徒労にとどいていた
頂上を渡る死の
酸性の風よ
この日ごろ私は
祈りのかたちに畳まれ
小さな舟のように流れていった
ちち・ははをしきりに想う

遠さがある
星よりも遠く
私のなかに
遠さがある (「遠さがある」)

例えば、離人症の患者が、ある時点から突然に世界の変転を経験し、総ての自己の感覚・知覚に対して深い(本質的な)疑惑と恐怖を抱きはじめるように、私達にとってある時点から突然にこの時代は変化しつつあったということは言えないだろうか。

学問は退廃し、大学は管理され、表現は掌握され、まさに私達の声なき声はどこまでも拡散して、どこからも返ってこない。一九六八年より以前、誰も今日の厳しい風化のことを予想するものはいなかった。そして、現在ではもはや、あの数年前の闘いの質に触れるものさえいない。

日常性の中に闘争そのものを持ち込むことなど出来はしなかったのだ。

(Ⅰ詩人論/山本太郎論 つづく・・・)

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