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2012年10月26日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-84-
ところで、内的経験のなかで、何故詩を書くか、何故表現をするのかという問題は果してどのように位置づけられるものなのだろうか。
表現を成立させている契機には自我の抑圧の構造が密接に関係していることを認めない訳にはいかない。心的機能における抑圧の自我構造によって人間の表現の問題をある程度基礎づけようという作業は興味のあるものといえるだろう。内的な抑圧を如何に人間の生存の問題へと結びつけていくのかということを明らかにすることが私の課題であるとき、個々の詩人の内的抑圧の構造を知覚していくことは重要である。
抑圧を、過去における既成の、権威づけられた人々のための心理学は、芸術的活動(表現)のなかで昇華(Sub-limation)され得るものとして規定した。しかし、私達の表現論は抑圧の自我機能をこの種の目標の変更(goalsubstitation)として解釈することはできないと考えている。人間的諸価値の多様性を基礎とした表現の多様性、解釈すること=されることの多様性は、抑圧の一元的理解からははるか遠いところに位置するものである。
詩人の内的経験への関与の過程は、空想生活の願望形成に転移する神経症者類似の心的機能として考えるべき契機ではなく、従ってフロイトが了解したような芸術家の心的契機であるところの、「抑圧の柔軟性」(flexibility of repression)として認識し得るものであってはならないと私は考える。
(Ⅱ表現論/私的詩人考つづく…)