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2012年10月12日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-83-
Ⅱ表現論
表現論としてまとめたが、無論体系だった論考ではない。むしろ、私の内部で形をとりつつある来たるべき表現論のためのノートといったものである。
「流通機構論ノート」、「言葉・言葉・根拠」、「表現へ」のエッセイは雑誌『詩学』に「私的表現考」の一部として連載したものである。
私的詩人考
―――現代における表現の可能性
(ⅰ)内的な抑圧
私にとって、基本的に興味ある事柄は、個人の表現行為をめぐる人間学的、現象学的な考察である。
無論ここで人間学、現象学と述べるとき、その状況への関与あるいは状況からの逆関与の問題はどのようにしても避けて通れないものとして存在している。
だから、方法的に次のように述べられた記述を思い出すことが必要である。
(1)「在るとは、世界の内に=在ることだと、ハイデッガーは言っている。この《の内に=在る》ことを、運動の意味において理解したまえ。在ることは、世界のなかに炸裂することであり、世界と意識との虚無から出発して、突如として世界=の内に=意識として=己れを炸裂さすことである。」(サルトル「現象学の根本的理念」)
(2)「行動は経験の函数である。そして経験も行動とともにつねに自分以外の他者ないしは他物との関係の中にある。」(R・D・レイン『経験の政治学』)
ここでレインの述べる経験(experience)とは、人間の内的な現象学的経験のことである。私達は現在における現象学の方法論から、状況的世界に関する、私達自身の開示性の認識を手にすることができる。
だが、私達は単に開示性だけを呪文のように唱えている訳にはいかない。現在において私達の自我の構造が大きく変革されようとしているとき、人間という内的にははかり知れない多様性をもつ存在への尊厳を軸として、私達はいつかは飛躍をしなければならないのである。それは、かって私が述べたように私的表現考参照)「事象そのものへ!」というテーゼを、より拡大した形で、「混沌そのものへ!」というテーゼにと内的経験を下降するものである。
(Ⅱ表現論/私的詩人考つづく…)