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墨岡通信

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2012年11月04日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-85-

私達の時代の詩は、苦渋の色に濃く染めあげられている。だから、私達は私達の表現であるところの詩をカタルシスとか快適なものとして手にすることは出来ないでいる。

状況のなかで、ついに言葉を見失ってしまったもの、言葉を発することを<断念>したもののみが、再び詩を我物とすることができるのだと私は思う。詩を表現することによってはじめて生きのびることが可能となる自我の構造こそ、詩人の内的な現象のすべてであるのかも知れないのである。

社会経済的な諸制度が内的な抑圧に対してまぎれもなく巨大な影をおとしているという事実、そして人間の表現をめぐる開示性(=実存的自由)が、これら諸制度をまきこむ<運動>として認識されなければならないとき、表現者としての詩人の位置も定まるのである。イタリアの精神科医Franco Basagliaが述べるように、現代では内的な現象を理解しようとするとき「愛は不充分」(Love is not enough)であり、表現者は常に疎外と抑圧への鋭い認識を持ち続けなければならない。表現とは内的な現象としても“political act”として規定されなければならない。

 「暴力とは、抑圧され力を持ち得ないものに対してナイフを持つことができる特権そのもののことである。」
                                         (Franco Basaglia)
人間の内的世界が永遠に広がる創造力の源泉であるとき、個人の表現は、人間的な愛とやさしさに根拠づけられた、対暴力(Counter-violence)あるいは対組織(Counter-organization)の中心的課題とならなければならない。そして私達は表現によって世界の内に定位するのである。このとき、まさしくプロセス(過程)と考えられていたものがプラクシス(実践)として現前しはじめるのであり、受動的であったものが逆に行為者となるのである。

このようにして形成される詩人であることは、意識として反権威・反知識的存在であり続けること、あらゆる形の疎外と抑圧に鋭敏に反応する豊かな感受性を必要としているのだと思わずにはいられない。詩人であることとは、まさに内的な<運動>そのものである。
(Ⅱ表現論/私的詩人考つづく…)

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