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2012年07月23日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-81-

 朔太郎の詩の意識的な技法も、アフォリズムや評論における思想や、朔太郎の感覚を切り裂く精神病理方法も、すべてを同時に撃つ表現論の方法が存在しなければ、朔太郎という巨大な抑圧を我がものとして固持している人間を私達のものとして理解することはできないだろう。
 朔太郎は決して、「魂の家郷をもたない詩人」であったのではない。「漂泊者」にしても、そのような実感的感情を描写したものではないはずである。
 私がくり返しのべてきたように、朔太郎という人間はあまりにはやく、自己の生存の基盤を、まさしくいうところの「魂の家郷」を完成してしまい、この完成にその后の自己の生を呪縛させてしまったのだ。
 朔太郎が、遠く遠く<近代>へなげかけた見果てぬ夢は、そのまま自分自身を呪縛してしまったこのようなスティグマの構造へとなげかけられたなまなましい内部の声であったのだと考えてもいいだろう。
 そして、この結果として、現実=状況的に朔太郎が<近代>によって大きく引き裂かれてしまったように、呪縛の構造は朔太郎の内部を確実に二方向に引き裂いたのであった。すなわち一方では自己の生存の基盤をかけたすべてのよりどころとしての<詩人>と、もう一方ではこの<詩人>を超越し、より人間的な思想者あるいは表現者として存続しようとする意志との永続的な分類とが朔太郎にはそなわっていたのである。
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)

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