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2012年06月28日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-80-
詩集『青猫』の憂ウツ――存在の根拠を喪失した憂ウツ――に比較しても、朔太郎が行きついた地点、詩集『氷島』の世界は朔太郎自身にとっても、またその作品に接する私達にとっても底知れぬほど痛ましいものである。
「断崖に沿ふて、陸橋の下を歩み行く人。そは我が遠い姿。寂しき漂泊者の影なり。巻頭に揚げて序詩となす。」と書かれた「漂泊者」の姿は、一体何者の表象だったのだろう。そして、その時点で朔太郎が日常生活のそれぞれの場面で鋭くかぎわけて知覚していたものは、何の影であったのだろう。
ああ汝 漂泊者!
過去より来りて未来を過ぎ
久遠の郷愁を追ひ行くもの。
いかなれば蹌爾として
時計の如くに憂ひ歩むぞ。
石もて蛇を殺すごとく
一つの輪廻を断絶して
意志なき寂寥を踏み切れかし。
ああ 悪魔よりも孤独にして
汝は氷霜の冬に耐えたるかな!
ここには、ただ単に作品上の完成を越えた魂の状態が映し出されているように私には思えるのだ。詩集『氷島』は、作品論として論じられる前に、なによりもこれらの作品の背後を流れる朔太郎の内的世界の現象についてどうしても触れられなければならないのである。これらの詩篇は、また、こうした内的世界の現象を敏感にかぎとってきた読者によって評価され愛されてきたはずであった。
私達が朔太郎の表現とむかいあうとき、朔太郎自身の自我構造と状況とのかかわりあいという認識のうえにたって、思想的にも技法的にも一方的に裁断されるのではない。一つの方法をいまや私達は切実に要求されているのである。
近代詩の展開のなかでは、朔太郎がこのような方法論を必要とした最初の詩人であったと言うことができるだろう。同時に、それは、私達の世代の内的な強い要請なのだということも、はっきりと認識しておかなければならないだろう。
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)