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2012年06月02日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-79-
かつて、イギリスの精神科医でスティグマの構造論の古典的開拓者であったマクスウェル・ジョーンズは次のように規定した。
「病になるということは症状の出現を意味している。過去の精神科医たちは、症状に気をとられ、疾患単位として症状をまとめたり分類しようと熱中した。しかし、今では、病になるということ、つまり患者としてふるまうことは、社会的な援助がなくしかも一人で生活することのできない個人がとる最後の手段と考えられるようになった。」(Social psychiasry in practice)
言うまでもなく、「一人で生活することのできない個人」という表現は心理学的な比喩である。朔太郎の自我の分析から導き出される、<詩人>への同一化というのっぴきならない状況も、最終的には「一人で生活することのできない」生き方の展開であったと考えることができる。
かつて、私は朔太郎の詩のなかで『月に吠える』から『氷島』まで、読者を極端に引き裂いて、各々の詩集に親和性を持つ個人が独立して存在することに触れ、そのなかで詩集『氷島』に親和性を持つものは、著しく内的な世界の構造にかかわる視点を持つ傾向があることを述べておいた。
このような現象は、やはり詩的表現においては単純に作品論による批評だけでは不充分であることを示唆しているのではないだろうか。また、同時に朔太郎詩の今日的意味も、やはり単なる作品の定着にとどまるものではないということを示していると考えることができるのである。
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)