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2012年05月17日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-78-

 ここに特徴的なのは、詩が実生活の正直な反映であるのか、あるいはまた実生活が朔太郎の詩のために、<詩人>のためにあるのか判定し難い一連の状況であるだろう。否、「ためにある」という表現は正しくない。朔太郎はこのような状況を自らに負わせなければ生きられなかった人であったというべきだろう。これは、断じて、「運命」とか「人生」の問題ではない。朔太郎の内的世界をたどることによって理解することができる人間の一つのの生き方の問題であり、このようにしてはじめて全人間的に把握することができる意識の深淵なのである。
 私達は、朔太郎の実生活を単に詩集『氷島』の作品素材として考えることはできないと感じている。このようにして、『氷島』の作品群は曲解され、誤解され続けてきたのだと思うと、いまさらながら、表現をめぐる「主観と客観」の問題の重大さを認識せずにはいられない。表現論のうえからは、ただ単に作品だけが存在するのでも、作者の生活だけが独立して存在するのでもない。私達はそれら表現にかかわるものを総体として認識する方法論を手にいれなければならないのだ。
 私が、朔太郎の表現行為のなかに、このような方法論の一つの試行であるところのスティグマの構造を見出すのは、私自身のそういった内的な要請にも基いているのである。朔太郎における、神経症的症状、あるいは分裂気質などといったものは、精神病理学的に裁断されてみても、そこからは何も生まれないだろう。と同時に、それを、まさに朔太郎にとっての結果であるところの<近代>の崩壊の予感としてとらえることもそれほど意味のあることではないと思われる。
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)

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