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2010年12月05日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-49-
「父の歩き方は、ふわふわと身体が宙に浮くような早足で、あやつり人形のようなぎごちなさだった。今にもころびそうで危ぶなかしくて見ていられないのである。祖母は夕方になると、『朔太郎がつまづくと危いから』といって、父の帰り道にころがっている大きな石ころをどけに行くことがよくあった。」(萩原葉子「折にふれての思い出」)
「……せかせかと足早に家に上ってくると、すぐに玄関にゆき着物とは似つかない汚れたソフトを頭に無造作にのせてでかけようとした。が、祖母が素早く見つけて、『今日はたしかに日を間違えないだろうね?天気予報じゃ今夜は雨だそうだから傘をもっておゆき』と父に新しい洋傘を持たせようとするのであった。傘は嫌いで必ずといっていいほど帰りまでに失くしてしまい、そのたびに祖母に叱言をいわれるので、『やめてくれ』というが、祖母はむりやりに父に押しつけて持たしてしまうのだった。
『買ったばかりだから電車や飲み屋に置いて来ては困るよ、それから幾度もいうけど着物は気をつけて汚ごさないようにおしよ』など、もう行ってしまった父の後姿にいい続けた。」(同前)
朔太郎自身がアフォリズムの中できわめて皮肉に、そして客観的に述べているような、<父>の存在とか、<結婚>とか<家庭>などというものは彼自身が目指した思想的表現のための辛辣な布石にすぎないのであって、現実には家族はいかなる形態においても単なる抽象物となり得ないのである。人は、まず家族体験のなかで孤独であることと他人と共にあることとの<弁証法>を認識するのであり、母子関係の持つ必要以上の共生から抜け出す孤独の場として家族の同一性は準備されていなければならない。
ところが、朔太郎の幼児期は、養育を一手にまかされた母ケイの溺愛によってつらぬかれたのであり、この傾向は生涯かわることがなかったのである。四十をすぎた朔太郎に対して、まるで幼児に対するごとくに注意をはらう母の姿は特徴的である。こうした母子関係から朔太郎は執拗に自分自身を岐立させようとする。朔太郎が、何回もくり返し子供の頃の夢について述べたり、無意識的な習性について語るのは母親の抑圧から自分自身をとき放つ意味も含まれていたにちがいない。
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)