成城墨岡クリニック分院によるブログ形式の情報ページです。
2010年02月03日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-44-
志向性について、開示性についてサルトルは述べていた。
「在るとは、世界の内に=在ることだと、ハイデッガーは言っている。この《の内に=在る》ことを、運動の意味において理解したまえ。在ることとは、世界のなかに炸裂することであり、世界と意識との虚無から出発し、突如として世界=の内に=意識として=己れを炸裂さすことである。意識が己れを取り戻そうと努め、ついには、ぬくぬくと、扉を閉めたまま、己れ自身と一致しようと努めるやいなや、意識は虚無化される。意識が、それ自体とは別なものについての意識として実在するこの必然性を、フッサールは《志向性》と名付けるのである。」(「フッサールの現象学の根本的理念」)
私は、私自身が、どのように渥美育子の詩にかかわるかという問いかけと同時に、渥美育子自身がどのように生きるかということにも永続的な注視を持ち続けようと考えている。
渥美育子の内的な関与が、人間的なやさしさによって根拠づけられ、あらゆる権威=反権威から遠く隔ったところに完成するとき、私達もまた未来への階段をのぼることができるのである。内的な関与が非状況的なものであるなどと私は考えない。それどころか、意識においてやさしさの根拠のない対暴力(Counter-violence)を私はどんな形においても、認めることができないのである。
渥美育子の経験は、やはり苦渋に満ちている。だが、多くの悲しみや、苦渋のなかで人間はより内的な世界にむかって、<運動>として歩を進めるのである。
(Ⅰ詩人論/渥美育子の内的世界つづく…)