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2010年01月26日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-43-
(Ⅳ)内部と開示性のユートピア
渥美育子がすぐれて、自己再帰的(reflexive)な意識を持ち続ける詩人であることは、詩集『裏切りの研究Ⅰ』のなかの詩、「裏切りの変位――翻訳論」や、最近の詩「とりかえたもの」(歴程 1975 一月号)を読むときはっきりと認識することができる。
外国語に深くかかわればかかわるほど、自己の内部の何かが傷ついていくことを、恐らく無意識的に感じとることから、こうした意識は芽生えたに違いない。渥美育子には常に、自分の表現に対する自分自身の苛立ちが存在するようにも思える。だから、渥美育子は内的な関与をただ単にまっすぐに投げ降ろすのではない。渥美育子の内的生活は周囲から隔離された静的な場所に根ざすものではあり得ないのだ。
部分品のようにとりかえた、
まわりにそぐわないもの
わたしにそぐわないまわりを、
まわり道は、
異国の風景と砂つぶのついたことばを
とりかえることで、はじまった。
(「とりかえたもの」)
渥美育子の意識の自己再帰性は、無論外的世界の現実的・状況的要請に関係を持っている。しかし、それは現実的世界を如何に生きるかというような設定とは相反するものである。むしろ、私はそれを未来に対する開示性の根拠として受けとりたいのである。
従って、渥美育子の表現は一つの固定された概念として同一化され得ないものと私は考える。例えばK.Mannheimが規定した意味で、渥美育子の表現はまさしく、イデオロギーの側にあるのではなく、ユートピアの側にある。表現がもともと内在的に持ち続けねばならないユートピア(未来への開示性)の体現を、きわめて力強く現実のものとする一つの意志を私はここに見出すことができるのである。表現は永遠にイデオロギーとなってはならないという固い決意と、本来的に表現が志向するユートピアへの希求とが、私たちを渥美育子の詩へとかりたてる。
(Ⅰ詩人論/渥美育子の内的世界つづく…)