成城墨岡クリニックによるブログ形式の情報ページです。
2009年09月02日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-41-
だが、現在私達が内的に要請されている表現は、苦渋の色にぬり込められている。表現を快適なものとして認識するには現在はあまりにも悪い時代であるからかも知れない。だが単にそのような時代であるということだけでなく、その時代を苦渋にしか生きられない人間達の声が、この時代の表現をささえているのではないだろうか。だから、私達の表現は、この意味においてまさしくIdentityを欠いているのだ。Krisのいうような、現実検討能力とか浄化作用(Catharsis)とか、芸術的幻想の保護機能とかいったIdentityの数々も、みごとに脱ぎすて、表現そのものへ、表現のもつ混沌そのものへと私達は突きすすんでいくのだ。
このような時代の、このような表現の一つの典型的な形態が渥美育子の生み出す詩だと私は解釈する。
渥美育子の詩は、ほとんど私達に心的同一化という過程で経験されるものである。意味性の伝達も、イメージそのものの構築も、渥美育子にとっては重要であるにもかかわらず、私達にとっては必然的なものは何もない。私達は、まさに渥美育子の詩のなかに私自身を見るのであって、(点在するフラッシュバックとして)私自身の内的必然が、作者自身の内的必然と直接には結びつかないものとしてある。
しかしわれわれの意志は執拗にのぼる。すると階段はあらゆる方向に向かって自在に延び、交錯し、波うち、われわれはハモンドオルガンが宇宙的流れを感じとる。この時意志は受動的歪曲から意思的構築へ、日常の外から異常の内部へと顔をつき出すパラノイアの胎児となり、階段の志向性そのものになる。静かな拡大と消滅の喧噪。その中でゆさぶられ、咽喉の全開された窓からはるかな脳室へ、錐揉状になって落ちてゆく自己を追いながら、ずっと未来の夢を確実につかみとろうとわれわれは原始のかたずをのみ、そういう自己を精密に感覚しながら、なおも階段をのぼることがある。
(「偏執狂階段」)
(Ⅰ詩人論/渥美育子の内的世界つづく…)