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墨岡通信

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2009年10月09日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-42-

渥美育子の内的世界は、きわめて抑圧の強い自我の構造によって支えられている。内的な抑圧をどのような位置で、自己の人間的生存と結びつけていくのかというのが私の重要な関心事であるとき、渥美育子もまた同じ場所で苦闘していると考えることができる。抑圧を、過去における権威づけられた人々のための心理学は、芸術的活動のなかで昇華され得るもの(sublimation)として規定した。しかし、現在、私達の表現論は抑圧の自我機能をこの目標の変更(goal substitution)によって解釈することはできない。人間的価値の多様性を基礎とした表現の多様性、解釈すること、されることの多様性は、抑圧の一元的理解からはほど遠いところにあるはずである。


私達の自我は、ますます自己の内部に抑圧を追いやっていく。奥へ奥へ、内部へ内部へと階段をのばしていくだろう。その過程で経験される出来ごとは、外的世界の物理的な基礎構造や、状況そのものの枠内で、それ自体が自己完結的に成り立っている経験である。

かつて、フッサールが倦むことなく主張したように
「あなたはこの樹木を見ている、それはそうだ。だがあなたがそれを見ているのは、それが在るまさにその場所においてだ。」


渥美育子が内的な経験への階段を登りつめる。そのプロセスを成立させているのは、空想生活の願望形成に転移する神経症者類似の心的機能の延長線上に考えるべき契機ではない。従って、フロイトが了解したような芸術家の心的契機である「抑圧の柔軟性」(flexibility of repression)として解釈できる心的現象とはほど遠いものであることを認識しなければならない。


渥美育子の内的契機は、より開かれた志向性をもつものなのである。渥美育子自身は次のように表現し得ている。



11 それは意志?家長のしたで密かに抵抗した
明治の母のメラメラ燃える青い炎?


12 だが 意志だけではやってゆけない
   一直線に出ていくなんて――


13 ただちょっとリズムを覚えればいいんだわ
   女飛行士のように 宇宙飛行士のように


14 カプセルのなかにいても
                   (「異次元」)
(Ⅰ詩人論/渥美育子の内的世界つづく…)

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