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墨岡通信

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2009年08月06日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-39-

Kenneth Kenistonは“Alienation in American Youth”のなかで、状況的な関与、(“Radicals”)と相対するものとして、ある意味での内的な関与の形態として“The alienation syndrome”を措定したが、彼はalienation syndromeのスケールとして次のようなものをあげていた。


(1)Distrust
(2)Pessimism
(3)Avowed Hostility
(4)Interpersonal Alienation
(5)Social Alienation
(6)Cultural Alienation
(7)Self-Contempt
(8)Vacillation
(9)Subspection
(10)Outsider
(11)Unstructured Universe


私にとって興味深いのは、渥美育子の詩のなかに出てくる語句と、このKenistonのスケールが確かに相関関係にあるように思えるからである。


しかし、これは渥美育子の詩が、状況に対して内的な関与という形態を示しているところから由来する相関であって、渥美育子そのものをAlienation syndromeのカテゴリーでもって把握してよいものかどうかはまだ疑問である。と、いうのも、渥美育子の詩の世界全体を支配しているのは<断念>ではなくて、むしろ<断念>のあとに続く無限の開示性であるように思われるからである。渥美育子自身が意識しているかどうかは別として、<断念>とは終末の一語ではなくて、逆にすべての表現への発端であるように私には思えてならないのである。


そして、このことの本当の意味は、持続する詩作という作業を通じて、渥美育子自らが明らかにしていく性質のものであろう。


憎悪をすてさるとき
裏切りのエネルギーは内なる階段を降り
降りつめて激しく上昇する
恍惚の意識をともなって


(Ⅰ詩人論/渥美育子の内的世界つづく…)

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