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2009年07月26日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-38-
渥美育子自身が、かつて私に語ってくれたように、彼女が事務的な能力においても秀いでているというエピソードは、単に情報処理に卓越した才能を持っている云々、などということでは決してないはずである。より内的な世界を構築している人間こそ、より状況的であるという仮説を私は思い出すのである。ところで、状況の側にある者の人間的基礎は、さまざまな論点から論理化されている。それが例えばここで引きあいに出している大学紛争にしても、ラディカルな側については、一例としてKenneth Kenistonが重層した心理学的機制について述べているのだが……。
「示威行為が抗議者自身の運命の改善に向けられていることがほとんどないことが分かろう。抑圧されている者との一体感の方が、直接に一人ひとり抑圧されているという現実の感覚よりも、より重要な動機づけの要因なのである。」(“The sources of student dissent”)
「ラディカルの発達における中心的課題に戻るならば、ラディカルな関与を支える決定的な力は、たぶん、自分のもつ基本的原則に従って行動しているという内心の感覚である。」(Keniston:“Young Radicals”)
このように分析づけられた心的機制とは相異なる(正反対とは言えぬまでも)内的な関与については、私達の知り得るものは少なかった。
だが、内的な関与という経験が現実である限り、そして私達に人間存在の深淵を垣間みせてくれるものである限り、私達はこのような現実の持つ意味について考え続けなければならない。
そして裏切りとは言葉を核にして
内部の風景を知ることだ
構造の秘密を透視するとき
われわれは最もほしいものを切りすてて
我身を逆方向にひきはがす
われわれは知ることにおいて敗者になり
拮抗する意志を燃えたたせ
絶対を求めて弱体を見る
われわれは無名の寝袋をかき切って
ほとんど自虐の勝者になる
(Ⅰ詩人論/渥美育子の内的世界つづく…)