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墨岡通信

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2009年07月09日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-37-

だから、はじめからことわっておかなければならないが、私の大学紛争についての関与と渥美育子のそれとはまるで大きく異なったものである。思想としても、認識としても、私個人の歴史としても180度対立するものであるかも知れないのである。だが、それにもかかわらず、私がなおかつ渥美育子という詩人について触れなければならないのは、私自身が内的な関与に対して多くの魅力を感じ、どこかで人間の激しい息づかいを感じるからである。かつての、格言めいた言葉の如く、状況から最も遠くに位置する者こそ、最も鋭く状況的である、と私は思わずにはいられない時がある。


それはすべての枠をはずし
輪郭をうちこわす
それは自由を奪うものの自由を奪い
破壊の前方に純白を見ようとする
積みあげられた胃袋のような部屋には
すでに有機体がない
共感、共鳴、交流がない――
百足のようにはしご車によじのぼり
百舌のように仮想の敵を串刺しにする
きみたち
声にもならず
グワーンと
ただグワーンと
天空につきぬける否定
きみたちは骨の髄から滴る痛みで
ひとり語ることがあるか
きみの振りあげた手は
信号系を支配できるか
きみの目は多面の透視体になり
きみの理論は
逆説の坑道を
どこまでも降りてゆけるか
きみたちがやるなら
わたしは居すわる
きみたちが押すなら
わたしが引く
きみたちがやめるなら
わたしが殺る!
         (同前)


このような激しい表象は、揺れ動く外的世界に対峙する内部の声である。私にはここに述べられている「きみたち」の声を、まるで異なった声々としてしか聞きとれないという前提があるにもかかわらず、渥美育子が固執しようとしている世界の構造がよくわかる。


詩集『裏切りの研究Ⅰ』のあとがきのなかで
「少しずつ克明に見えてくるイロニーの網目に落ち、もがくほど深くのみこまれてしまう。<裏切り>とはわたしにとってそうしたなかでの内部崩壊であり、憎悪の樹皮に包まれた断念の樹である。」
と述べる渥美育子の詩句は、彼女自身の状況(=Interpersonalなもの)と、内部意識とのあいだの不可避な葛藤によって成立していると考えることができる。
(Ⅰ詩人論/渥美育子の内的世界つづく…)

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