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墨岡通信

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2009年07月01日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-36-

かつて、渥美育子は山本太郎論の冒頭で次のように述べたことがある。


「神なきあと、人間の情動と闘いつづけている詩人たちの領域に属しているわたくしにとって、神を認識の保塁に置く山本太郎は異質のひとである。」(「原初への開自の唄」)


私は、渥美育子を人間の意識の内部の経験にむかって、その情動を激しく突き立てようとする詩人の一人として理解しようとしている。そこでは、渥美育子という存在が詩という表現へ関与しようとする形態はきわめて、内的な構造をもっているからである。


なぜ一つの言葉、一つの主張
一つの行為、一つの事実
なぜ一冊の本、一人の人
一片の思想、一切れの批判
すると
わたしの中で否定の電流がはねあがり
儀式のように暗号がかえってくる
すべて一点にむかって走る
おびただしい言葉 おびただしい主張
おびただしい行為 おびただしい事実
無数の本 無数の人
無数の思想 無数の批判
そして朝のベッドの中で
手足をもぎとられ 寝袋につめられて
一つの言葉もなくおびただしい言葉もなく
幸福にころがっている
無数で一つの障害物だ
(さあ 動こうかやめようか)
ここからの見通しはすばらしい
その上自分の姿も見えないのだ
脈絡のない断片につながるか
密かに敗者の眼をかちとるか
      (「裏切りの研究」)


この「裏切りの研究」という長篇詩には、大学紛争について、という副題がついている。


この、一見して非常に状況的な詩ほど、渥美育子の内的な世界を表出している作品はないというのは一つの逆説だろうか。だが、考えてみれば、大学紛争を状況的作品として表現しようとするとき、私達は個々の具体的な紛争の歴史的=政治的構造を抜きにして作品として抽象することはできないことを感じているのだから、渥美育子の立場は、はじめから異質な背景のもとに成立していると考えてもいい訳である。
(Ⅰ詩人論/渥美育子の内的世界つづく…)

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