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2009年06月24日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-35-
「行動についての非常に多数の単位を寄せあつめ、これらを、非―人間的客体からなる系を構成するところの多様さとなんら異なるところのない仕方で、推計学的な母集団とみなすことはできます。しかし、これでは人間を研究しているのではありません。人間の科学というかぎり、私は自明の理として次のことを言いたいのです。
『行動は経験の函数である。そして経験も行動もともにつねに自分以外の他者ないしは他物との関係の中にある』と。」(R.D.Laing『経験の政治学』)
私は、私自身の表現論という立場から、かならずしも完成された詩や、構成上のイメージにこだわることをやめる。私にとって詩の完成などという問題が意味のあることだと思われないという理由だけでなく、方法的にも私は詩人の意識と、知覚と表象の産物であるところの語句そのものの解釈(主観的解釈)をとおして、心理学的に私達が求めている深層面接(depth interview)を援用したいのである。
(Ⅱ) 内的な関与
渥美育子の詩に出会う者にとって、まず最初に突き当るのは、読者を拒絶するかのような難解なイメージの壁である。渥美育子の詩のこうした難解さが何に由来するものなのか私には正確にはわからない。多分それは、多くの人が指摘するように、渥美育子がまず最初に外国語を使って詩を書きはじめたという事実と不可分のものであるだろう。渥美育子が描き出そうとする言葉の世界は、その背後にある豊富な異質文化への依存を軸にして成立しているようにも思える。だがしかし、単に詩における表現の方法に関する問題だけでなく、この難解さは、渥美育子自身の詩という表現への関与のありかたそのものに関っているように私には思えてならないのである。
何故、詩なのかという問いかけは、それぞれの詩人に対して、主観的・客観的にあびせかけられる設問の基本的に重要な部分を占めているに相違ない。そしてそれは、多分詩とは何かといった使い古された常套句に連なるものなのであろう。
私自身は、表現および表現行為に関して、人間的基礎を求めているのであるけれども、例えば、“関与”の問題を考えるうえで各々の詩人の詩への関与の所在を求めていくのは決して意味のないことではないと考えるのである。
(Ⅰ詩人論/渥美育子の内的世界つづく…)