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2009年05月15日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-30-
私を焼くには、はじめに私のてのひらをひらかせる男が貸しあたえてくれるであろう蝋燭の火がもちいられる。私は手のなかで、それをこわさぬように注意ぶかく握りしめながら、てのひらが焦げ、指骨がじゅずつなぎに地におちるのを見ているのだ。
もちろんそのときは、あらたな火種が私の足もとの薪の束になげられて、炎は私の脛毛をいぶしている。けれども、私は、蠟燭をともしつづけるという彼との黙契に気をそがれ、わめき、ころがることもやめ、おどおどしながら燃えていくのだ。」(「刑」)
私は想像するのだ。粒来哲蔵の詩の根拠こそ、実は≪自己破壊への意志 ≫であり、≪自己攻撃≫なのではないか。
意識の「劇」において主役であるべき「私」は、常に崩壊の危期に瀕している。そして「私」を崩壊させるのは、その≪状況≫を創り出した詩人自身の手によってである。
「私が醜い女をめとったのは、私自身が私を蔑むためだった。彼女の顔を日毎に見、その都度、私は私に嗤われて然るべきだった。気の利かない粉飾と虚構。しぼんだ烏瓜ほどのこう丸を提げて、さて一体私に何ができただろう、私自身を蔑むことのほかには。私は愛を語り合うとき、髪に尿を塗りこんだ。私は肉をひさぎあう時、四肢に糞を塗りつけた。けれども、私に何ができただろう。私の行為を嘲り、私の知覚の稚なさに鼻をつまむこと以外には――。」(「贋ユダ記」)
だから、粒来哲蔵の表現の随所に存在するこの≪自己攻撃≫の由来は何か、という設問は粒来哲蔵を論じる上で非常に興味深いことなのだ。
例えばここで古典的な精神分析理論を採用すれば、≪自己攻撃≫型の人格の背景では、所謂超自我の形成が不完全であることが指摘され、その心的現象のダイナミックスにおいて、これは父ないしその代理者に対する同一化の障害に基づくと解釈されるだろう。
しかし、一方ではボールビイは母親との早期の分離あるいは母性遮断の影響をより一層重視しているし、グライジャー一派はこれに対し父子――、母子――、父母関係の三つの関係のいってみれば弁証法的力動的関連の総合的観察が必要であることを強調している。しかしいずれにしろ、家族関係の分析がこの問題を解く鍵であることに相違はない。
(Ⅰ詩人論/我が粒来哲蔵論つづく…)

