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2009年05月13日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-29-
「一つの動作のもつ意味合い、一個のことばのもつ意味性は夫々一個に限定されるものではないことは勿論、それは無限の拡大が約束されるものだ。寓話は意味の限定を嫌い、その可能性の無限に賭ける。幻想の劇の寓意は主役たるべき『私』の無数の再生を可能にさせるが、さて『私』の崩壊がはじまったとき私の詩は担うべき課題を担うに違いない。」(同前)
粒来哲蔵の詩の中核に据え置かれているものは表現への意志であると私は書いた。それではこの表現への意志は粒来哲蔵の内部でどんな構造を持っているのか。「劇」の主役であるべき「私」、崩壊を予期した「私」とは一体何なのだろうか。この問題を抜きにして私には粒来哲蔵を語ることは出来ない。否、私には、このことが脳裏にこびりついて離れ難いのだ。
「私の肩には古風な銃が掟のようにのっている。この引鉄をひくことは容易ではなかろう。第一私はこの銃を好いていない。これを私に遺したのは私の祖父である。祖父はこの銃で妻を撃ち自らも死んだ。以来白い標的は絶えず私の目の前に動いてる。それは季節外れのダリアであり、私の母の淫らな頸である。」(「射程」)
粒来哲蔵の詩に色濃く影を落しているのは、単なる詩人の内部意識の表象といったものではない。粒来哲蔵の詩の一見して強固な構造の中核に存在して、その詩の解釈の多様性の深い根拠をなしているのは、まぎれもなく或る無意識的な抑圧である。
私には、粒来哲蔵自身が逃れようとしても逃れられない現象学的体験の存在が、脆くも粒来哲蔵という人間を詩人として宙空にピンでとめているのだと思われてならない。
それでは、粒来哲蔵の激しい表現への希求をささえているものは何か。
(Ⅰ詩人論/我が粒来哲蔵論つづく…)