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墨岡通信

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2009年04月26日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-28-

我が粒来哲蔵論


――詩人の内部意識


粒来哲蔵の表現を論じることはむずかしい。何故なら、粒来哲蔵の表現にはきわだった統一的イメージなどどこにも存在しないからである。粒来哲蔵の表現では、イメージは無限に拡散していってしまうか、鋭く個人の胸に突きささったまま深く深く人間をその一語にかかずらわせてしまうか、そのどちらかである。


このことは、粒来哲蔵の表現が多くの散文詩がそうであるようにイメージを造形の中核に据えているのではないということを語っている。粒来哲蔵の表現の中核に据えられているものは、一つの巨大な意志である。表現への意志であると私は考えている。粒来哲蔵にとって本質的に重要なものはこの表現への切実な意志しかない。


だから、粒来哲蔵の書く散文詩は単に≪詩≫であるよりも、むしろ或る≪状況≫の創出であって、日常の中に厳しく投げ込まれた≪状況≫の切断面そのものである。


粒来哲蔵は述べている。


「ことばのもつ記述性の効率を高めるための散文詩形は饒舌が生み出したものではなく、日頃口ごもっている人間が劇の中を足速にかけまわる時の息づかいのような、継続する荒々しさと、微熱と亢奮が生み出したものだ。」(「わたしの詩法」)


粒来哲蔵が詩的位相を「劇」と語るのは非常に興味ある事柄である。何故なら、劇こそは最も鋭く≪状況≫を創出するものなのだから。しかも粒来哲蔵の「劇」は表象としての劇である。あらゆる時、あらゆる空間を占拠し得る、至るところの劇である。


だから、粒来哲蔵の詩の中でイメージは遂に造形として存在しない。現代におけるいくつかの表現手段がそうであるように、粒来哲蔵の詩も、表現への強烈な欲求にささえられて無限の読者の意識の内へ際限もなく浸潤してゆくのだ。そのとき、定着し、評価され、完成する≪詩≫など、どこにもありはしないのだ。
(Ⅰ詩人論/我が粒来哲蔵論つづく…)

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