ホーム >> 墨岡通信

墨岡通信

成城墨岡クリニックによるブログ形式の情報ページです。

2009年03月28日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-26-

一体化すべき規範を提供しない現代に対抗して防衛的にうちこむクサビとなり得るという精神医学上の一つの仮説を持ち出すまでもなく、山本太郎の詩句は、こうした意味での激しい告白である。


さらに私の注意をひくのは、笠原嘉壽が、今日の大学生の神経症治療の経験から、次の時代には<抑うつ>にかわって<アパシー>(無感動)が代表的な神経症になると予想している点であって、その予想を私達の表現で打ち破るために(自分の表現が生きのこるために!)私達はメランコリーの中でなおかつ語り続けなければならないのだ。


ルネ・シャールは美しく語ったはずだ。
例えば、メランコリー型性格というものがすでに現代生活の困難に対する一つの性格防衛として激増している事実があり、メランコリーは
「この世に生れて何一つ混乱を起こさぬものは、尊敬にも忍耐にも値しない。」
世界の関係の内部に正確に敵をよみすえながら、なおかつ自己を破壊することによってこの機構に波立たせようとする生きかたのことを私は常に忘れないでいようと思う。


例えばここで山本太郎が言葉を失っていくことは、山本太郎自身を外面的にしろ内面的にしろ、だめにしていくことにつながるだろうとさえ思いながら、そしてそのことに気付きながらも、このようにしか状況にかかわっていかれない詩人の生きかたは、それ自体既にすさまじい力動であり表現でなくてなんであろうと私には受けとめられるのだ。


いま、おそらく山本太郎は一つの変曲点に立っていると私は思う。何かがまちがっていると書くことは簡単である。山本太郎を論じることも、状況を論じることも、誤解を恐れずに言えば学問そのものも、それほど困難なことではないだろう。だが、困難に生きるということは、それだけで激しい表現である。
(Ⅰ詩人論/山本太郎論つづく・・・)

新しい記事を読む 過去の記事を読む

ページのトップへ