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墨岡通信

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2009年03月24日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-25-

例えば吉本隆明があの苦渋に満ちた労作『言語にとって美とはなにか』を、人々の理解から遠く隔ったところでまったく黙々と書き続けながら、その間沈黙の言葉で「勝利だよ、勝利だよ」とつぶやき続けていたということと同じ地平で山本太郎は「僕はかろうじて心の卑怯だけはまぬがれてきた」と自問しているように私には思われるのだ。


山本太郎の詩が急速に言葉を失っていく過程があると私は書いた。だがそれは同時に、山本太郎の表現の切っ先が横切っている、突き刺している巨大な暗黒な空間がはっきりと屹立しているということなのだ。吉本隆明はその後一層困難な作業に自己を追いやりながら『心的現象論序説』にまで至ってしまった訳だが、山本太郎の表現の彼方には一体何があるだろうか。



異口異音の「ひろば」の活気を
殺すものは外部にばかりいるのではない
車座からたちあがり君が
星空の下へ離れていっても
背中で語る卑怯な時 などと俺は思わぬ
俺達はただ怒りの重心が
深まったことを知るのだ  (「広場」)



あらゆる場所を、私達は断じてかんたんに通りすぎてはならないはずである。かんたんに生きてはならないはずである。権力とか支配とか、被害とか差別とか、たとえ言葉そのものがいかに非日常的にみえようとも困難に生きるものの暗闇に対して、個人のあらゆる行為と思考との無限責任は厳として存在しているのだ。


山本太郎の詩は人間に対するやさしさに満ちている。それは山本太郎が求めてやまぬ人間関係の地平への愛の唄である。



君は問い俺が答え 俺が問い答え
中心の欠落こそが
車座の自律に変えるだろう



現代に於いては、むしろ人間関係というものは機構の問題として存在していて、単に人間個人対人間個人の関係のことではない。それは常に「職場での人間関係」であり、「家庭での人間関係」として述べられるのである。内閉的性格を持ったもの、あるいは一つの共同体の形成を望むものにとって、現代日本社会は極度に息苦しいものであるだろう。山本太郎の最近の詩は明らかにこうした予感を鋭い感性のなかに胚胎しているのである。
(Ⅰ詩人論/山本太郎論つづく・・・)

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