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2009年01月16日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-13-
山本太郎は野たれ死に、ということを常に感覚している詩人であると私は考える。自己を野たれ死にさせるために莫大な心的エネルギーを駆り立てて突き進んでいく詩人である。言うまでもなく、私は野たれ死ぬことの美学を説いている訳ではない。野たれ死ぬことのむなしさ、寂しさ、いやらしさ、悲しさ、これらはもう既に言葉の範疇を超えているのだ。そうではなく、ここ現在の表現をめぐる状況のなかでは、私達は遂には野たれ死ぬということにしか、感性の総てを賭けることはできないのだということを私は述べておきたいのだ。
野たれ死ぬ、ということを意識したとき、すなわち私は野たれ死ぬしかないとき、状況の壁は突き破れないまでも、透明になる。
「ここまで幻想を解体し認識を透徹せしめた時に、はじめてわれわれは反転の弁証法をつかむ。われわれの、今ここにある、一つ一つの関係や、一つ一つの瞬間が、いかなるものの仮象でもなく、過渡でもなく、手段でもなく、ひとつの永劫におきかえ不可能な現実として、かぎりない意味の彩りを帯びる。」(真木悠介)
詩的言語の矮小化という現象は無論いまにはじまったことではない。状況の袋小路に追いやられた≪詩人達≫の精神的活力は徐々に、無為のものとして朽ち果ててしまうしかないように思われる。
いかなる意味においても、詩の流通機構そのものの機能を、自己のものとして内在化し得なかった現代詩のむなしい拡散状態がある。
言いかえれば、詩を支えるもの、現代詩をめぐる根拠に総体的な衰えが進行しつつあるのだ。
現在、いまだ新しい現代詩の運動体はどこにも存在しない。これは≪表現≫にとってさえ実に異例なことではないか。現代詩ほど旧式な表現論しか持ちあわせてはいない私達の表現の形が、他にあるだろうか。現代詩には真に時代との緊張関係を露呈させるものは実にわずかな存在でしかないのである。
山本太郎の存在する位置はこうした困難な問いかけをまる捉えしたところにある訳で、彼自身のおびただしい、叫びにも似た問いかけの言葉は単に山本太郎の詩、一篇の詩の完成のためにある訳ではない。
(Ⅰ詩人論/山本太郎論つづく・・・)