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墨岡通信

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2008年11月01日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-12-

だが、時代を真正面から見すえながら生き続けていくことはつらいことである。時代の困難さが増すにつれ、それにみあうだけ精神の側の苦渋も一層激しいものとなっていくだろう。「若さ」というものを軸として、山本太郎の発した「どうすればよいのだ」という一語は永遠に解の存在しない謎の環の中に組み入れられてしまう。状況の側、時代の側の変転と詩人の内部の変遷との間に、言葉もなく懸垂している巨大な影がある。
『歩行者の祈りの唄』から、詩集『死法』にまで至る山本太郎の足跡には、厳しく一つの予感が存在している。山本太郎の詩的行為はこの予感を綾なす糸のように織り込んで連なっている。そして、この予感とは言葉の喪失をめぐる詩人の営為である。しかも、ここ数年山本太郎の予感の激しさは加速度を増し続けていることも確かなことなのだ。果して山本太郎はこのさきどこへ行くのか、という想いが最近の私の頭にこびりついて離れない。ポール・ニザンは何でも言うことができた。私達が耳をおおいたくなる時でさえ、何でも言うことができた。しかし、山本太郎はいま何でも言うことができるのか。
私は、山本太郎が既に老いたという風な話を書こうとしているのではない。老いたというなら時代そのものが既に老いたものとなっていることをまず言わねばならない。私達はいま、このように言葉の喪失にむかって膨大なエネルギーを消費しつつ苦闘している一人の詩人の声に強くひかれる。そして、それがそのまま私にとっては1967年と1973年の落差なのだ。

言葉よ しばらく黙せよ
俺は冒頭の一行を
いっきょに消去し
一ヶの聴道 一管の楽器にかわる
俺を静かにならしはじめるのは風
俺の沈黙が受胎する
わずかに 殺されるものの声だ
もはや<生きる>という措辞はいらぬ
<けれど>を消すとき俺は
ほぼ野放図もなく展開し
死の意図を超えるために
死者達の声を受容しはじめる   (「詩法」)

山本太郎という詩人は、おそらく状況から最も遠いところにいる詩人である。だが、にもかかわらず、山本太郎の詩がまぎれもなく状況的であるのは何故なのか。
(Ⅰ詩人論/山本太郎論つづく・・・)

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