成城墨岡クリニックによるブログ形式の情報ページです。
2018年10月26日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-165
私自身は、現象学的・人間学的な運動について考え、行為し、述べようとしている訳であるが、現在もなお政治的運動としての医療の問題を曖昧にしか総括し得ないでいる。
だが、例えばF・Basagliaが結論づけた一つの反権力的な意志は、既に政治的なものではなく、鋭く人間の生き方の問題に触れるものだと言えるのである。私は、政治的運動の挫折として、あるいは政治的運動が無力であるときに<人間学>が存在するという考え方ではなくて、このような認識は、政治的運動の一つの成果であると考えたいのである。
かつて、D・クーパーは“The Death of the Family”(家族の死)という論文集のなかで私達の内的な(抑圧的な)家族の構造(“Internal Family”)の分析において、次のような見取り図を描いた。
すなわち、家族的機能の基本的な要素は、母子の不充分性をもとにした結びつきにあるのであって、そこでは常に、既に何重にも女性として抑圧を受け、不全感を持ち続けている母親という存在が子供の上にのしかかり、母親の不足を子供に結びつけようという無言の意志が働いている。だから、このような家族構造の内にあっては子供は決して母親以上に完全になることは出来ないのである。子供は、あたかも母親にとっての“Penis”として存在してきたのだから。このような内的な過程を通して、母子共生(Symbiosis)という異常な人間関係がうまれ、それが<精神分裂病>へと発展していくことを想定することができるという。そして、D・クーパーはこの過程から抜け出す方法は、たった一つしかないと述べる、それは、愛(Love)の自由な温かさなのであると。
(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)
2018年10月09日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-164
しかし、F・Basagliaの実践はついには挫折的に終末を余儀なくされたのであり、彼は綿密な現状分析をふまえて、現在ではこのような政治的行為は現実の力となるまでには熟していないのであって、現在自分達に出来ることは常に疎外の問題に対してするどい認識を持ち続けることしかないと悲観的に結論しているのである。
Maxwell Jonesの実践と理論については後で詳しく述べることにするが、日本に於いても、ここ三年程の間に、精神医療を純粋に政治的な問題として把握する運動は次々と、さまざまな壁に突きあたった。壁に突きあたるたびに、<精神病者>あるいは<分裂病者>をあらゆる課題の原点に据えなければならなかった訳だが、その度に確実に問題は深く<病む人間>の問題の側に足を踏み入れてきたのであった。精神医療を政治的運動としてとらえる考え方も、現在ではさらに方法論を拡大していかねばならなくなっていることは事実である。まさに、「精神分裂病とは何か」という問題をそのための中核に置かなくては、一歩も政治的な運動を展開できないのである。しかし、このことはこうした運動が激しく模索してきた方法の豊かな果実の一つであると私は考えている。
(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)
2018年09月11日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の平地を透視するものへ-163
例えば、イタリアの精神科医Franco Basaglia は彼のGorziaに於ける病院体験から、その悲劇的現実を目の前にして精神病院と、その病院の存在を許している社会経済的諸問題、そして精神医学そのものに対する批判を展開していった訳だが、彼は「精神病とは社会から人間的諸権利を剥奪されるところに産まれる病である。」と規定し、その故に社会的<状況>を変化させない限り何者も精神病を理解することは出来ないと認識した。そして、つねに患者に対して政治的な認識を高める努力をすることが最も必要であると考えるようになる。F・Basagliaは次のように述べる。
「暴力とは、力を持たないものに対してナイフを持っているという特権そのもののことである。」
「現在では精神科医は疎外された者の目を社会からそむけさせるための安全弁である。」
「従って精神科治療とは、暴力でのものの管理でもなく、疎外されてある者をだまらせるための方法でもない。」
「治療とは政治的な行為である。」(“Therapy is a political act.”)
このような立場から、F・Basagliaは単純な精神病院改革論者を批判し、さらには方法的に人間学的な改革論者をも批判したのであった。例えば、イギリスに於ける精神病院改革の旗手であったMaxwell Jonesを批判し後者に対しては、「愛では不充分である。」(Love is not enough“)という一語をもって批判にかえたのであった。
(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)
2018年08月24日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の平地を透視するものへ-162
現在、いくつかの精神病院のなかで、政治的運動ではなく、人間学的な運動として<世界の病むこと>を把握しようとする試みは、多くの場所でさまざまな困難につきあたっている。精神医学、精神病院のかかえ持つ過去の巨大な蓄積の前に私達の力は、まだ微力である。しかし、私達は、一歩一歩自分自身の生き方に正直に(非権力的に!)行為していくしかないのである。
一九七五年の日本精神神経学会に出席した反精神医学の代表的論者であるD・クーパーは、その演題「精神分裂症とは何か」のなかで端的に次のように語っていた。
「分裂症的な端緒場面の意味を理解するのに必要なのは、何か新しい種類の方法ではなく、新しいこころなのです。」
私はいま、実に簡単に政治的運動ではなく、人間学的な運動を、と述べたのであるけれども、現在の精神医療をめぐる激しい流れのなかでこの二つの過程はそのなかに個々人の厳しい苦悩を含みながらいまもなおすさまじく進行中の出来事を意味するのである。
反精神医学を、現象学的、人間学的精神医学の一里塚と見なすのか、それともラディカル・サイコロジーの出発点として把握するのかということをめぐっても私達の評価は不幸にも一致し得ないのである。
(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)
2018年08月05日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-161
ⅱ
私達が、幾重にも曖昧さをあとに残したまま、敢えて<人間>概念をすべての世界定位の中核に据えようとするとき、私達はどうしても書斎のなかで思考し、文献学的に論じるということそのものに対して激しい批判を投げかざるを得なかった。しかし、それは単に社会変革だのといったマクロ的な問題解決を指向することには直接にはつながらず、現に、私自身の目の前に現存する「世界の病むこと」を背負っている<患者>を私自身の生き方の内にどのように問題とするのかということなのである。「彼は人間ではない!」と断言するかのような精神病院も、精神衛生法も、既成の精神医学も、まさに概念として存在せているのではなく、私達の日々の営為の中に巨大な差別的な実体として存在しているのである。私達にとって人間の尊厳とか精神の深遠などどという言葉ほどむなしく響くものはない。これらのもっともらしい言葉は、まさしく人間存在の一〇〇人のうちの一人として存在する<分裂病者>を遠く遠く、視野の圏外に排除してしまった者の言葉である。
最近、再び頻回に引用されるようになったミシェル・フーコーがかつて述べたように、精神病理学とか心理学の存立というのは、<狂人>を隔離し、疎外したことによってはじめて可能となり、また必要となった学問であるという事実を想起しなくてはならない。
(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)