成城墨岡クリニックによるブログ形式の情報ページです。
2019年05月28日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-170
具体的な一つの方法として、私達は長期入院患者を伴って、その肉親への家庭訪問を実践することにした。その第一の対象として、精神衛生法第29条による強制措置入院を、主として経済的な理由から解除できないでいる患者をとりあげるべきだという判断が私達にはあった。病院、ケースワーカー等と福祉事務所との間の疎通のなかで、このような患者を単に書類上の決定として、措置解除→生活保護による同意入院、への変更はむしろ簡単におしすすめられることになっていたが、私達はこのことに満足してはいられなかった。患者を、ともかく家族の集中的な力学の渦のなかに立たせなければ、将来への展望など何一つ生まれ得ないと私達は考えていた。
50年6月から、私と病院ではベテランのケースワーカーであるWさんとは、チームを組んで長期入院患者の家庭訪問(患者を伴って)を行うことにした。
以下に述べようとするN・Hさん(38才男)の場合もその一つのケースである。
N・Hさんの家庭訪問は、6月の末に近く真夏のような陽光が照るむし暑い日だった。
(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)
2019年02月21日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-169
私達の考えが、“反精神医学的”といわれようが、“新しい精神医学”といわれようが、そんなことはきわめて現象的なことなのであって、その本質は、豊かな人間性に支えられた、失われた開示性の回復の過程へむけての共同作業なのである。
それでは、病院のなかに十数年以上も入院させられたきりになっている障害者に対しては一体どうしたらよいのだろうか。
私達はこのような“分裂病の欠陥状態”、あるいは“荒廃した分裂病”と名付けられた人間に対する<精神医療>の構造をめぐって模索を続けてきた。
しかし、過去の精神医学と医療とが果してきた巨大な役割のなかで、私達の営為はどれをとってみても卓越した手段とはなり得ないでいた。しかも、私達は単に思弁的でいることは許されない。とにかく、その人間をめぐって今ここで何かをしなければならないのだ。こうした状況から、沈殿した<分裂病>の患者さん達をめぐる、精神医学的、社会的状況の再検討という課題が頭をもたげはじめてきていた。
これら、精神障害者の本当に背後にあるものは何か。果して何が一番の抑圧なのか、という原始的な疑問を軸にして、私達は考えていこうとしていた。
(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)
2019年01月15日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-168
この精神病院のなかに(それが閉鎖病棟であれ、開放病棟であれ、作業病棟であれ)、二十年以上、あるいは十数年間も入院させられ、そしてそれ故に退院の見とおしもたてられない精神障害者の存在は、私たちにとってきわめて重い意味を持っているのである。
私達は、病院の機能上だけでなく疾患(多くは精神分裂症と名付けられた)の症候論においても次のような視点を措定しなければならないことを感じている。
<分裂症>を発病してまもない人間に対する<治療>および<医療>の問題と、これら病院に沈殿し、退院することのできない人間に関する治療とは、まったく別のものとして把握されなければならない。そればかりでなく、このような<分裂症>を病んでいる二つの側面の人間の生き方、そして<分裂病>そのもののプロセスも、まったく別のものとして理解されなければならない。
沈殿していかざるを得ない精神障害者は、過去の精神医学と、精神医療が意識的・無意識的に行ってきた<治療>の巨大な非人間的遺物だと私は考える。私達は二度と、同じ誤りをくり返してはならないのだと、肝に銘じておかなければならない。
そのために、現実に<分裂病>を発病したばかりの人間に対して、私達は絶対的に(!)積極的な対人的・対社会的な働きかけを行っていこうとしているのである。
(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)
2018年12月14日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-167
ⅲ
この断続的な論考も、一般的な表現論からすこし離れて、ある意味できわめて各論的な精神医学の分野にかかわりすぎたという気がしないでもない。だが、ここまで<世界の病むこと>の内にかかわってきた以上、もう少しだけ歩を進ませて述べさせてもらいたい。
私が現在勤務している精神病院は、東京都の私立精神病院のなかでは、その歴史にしろその規模にしろ代表的な病院といってよい。
だから、この病院の歴史は、そのまま日本の私立精神病院がたどってきた精神医療の歴史だと考えて過言ではない。そして、それだけではなく現代の精神医療の状況と、精神衛生法体制の中核を担う病院として、現在もなお厳然と機能しているのである。
(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)
2018年11月13日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-166
私は、ここで先に述べたF.Basagliaのいう「愛では不充分である。」(“Love is not enough”)という認識との対比について述べているのである。
しかし、このように述べたD・クーパーは次第に彼の精神医学における実践を通して政治的関心の方向へとむかい、権力を持たない者の権力・対組織(Counter-organization)の形成などに没頭していったことも周知の事実である。今回のシンポジウムの席上でも彼は、反精神医学の国際ネット・ワーク(Reseau International)への参加を叫んでいた訳であるが、私はしかし、現在の時点でなおかつ、「分裂病的な端緒場面の意味を理解するのに必要なのは、何か新しい種類の方法ではなく、新しいこころなのです。」と語るD・クーパーの言葉の持つ意味について思いをめぐらすのである。
ここには、単純な運動論を突き抜けた新しい生き方の模索が暗示されているように思われるのだ。私達にとって、理論と現実との齟齬が既に古典的な前提であるとき、ただ単に現状分析や認識論をふりかざして、「概念や理論とアクチュアルな状況との乖離」という現象を裁断してみてもそれほど意味がある訳ではない。無論、権力構造の問題への鋭い認識を措定しておくことは不可欠だとしても、この現象を、内的な場面での変様にまでつきつめて考えなければ、<分裂病>をめぐる私達自身の関係、想像力や日常性の問題へとその構造を行きつかせることはできはしないのである。
(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)