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墨岡通信

成城墨岡クリニック分院によるブログ形式の情報ページです。

2023年05月22日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-202

反精神医学を最初の試金石としたラディカル・サイカイアトリー(ラディカルな精神医学)はまだはじまったばかりなのである。と同時に、既にはじまってしまった精神医学上のこうした方法の所産はもうどうしようもなく既存の精神医学を変質させはじめているのである。もう、あとにはもどれないほどに。

しかし、この事実は考えてみれば当然のことなのであって、誰が見ても本質的な論理の矛盾によって組み立てられていた既存の精神医学が崩壊してゆくのは時間の問題でもあった訳である。だから、反精神医学を含むラディカルな精神医学を目指す運動を、単なる一派としてかたづけようとする権威的モデルはいずれも失敗しているのである。

そして今日、精神医学を状況論としてとらえようとする流れはいくつかの方向性を具体的に提示しうるところにまで至っている。

「病になるということは症状の出現を意味している。過去の精神科医たちは、症状に気をとられ、疾患単位として症状をまとめたり分類しようと熱中した。しかし、今では、病になるということ、つまり患者としてふるまうことは、社会的な援助がなくしかも一人で生活することのできない個人がとる最後の手段と考えられるようになった。」

かつてこのように述べてイギリスにおける地域精神医療の原形を作りあげたマックスウェル・ジョーンズが、精神医学概念のなかに治療共同体(Therapeutic Communities)理論を導入したのは一九五二年であった。彼はそのなかで、中心概念として共同体による自己決定の方法を確立させたのであった。このマックスウェル・ジョーンズもその後のラディカルな精神医学の流れのなかで、彼の実践はその階級性(真に抑圧されている患者が位置づけされる対精神病院、対社会的な内実としての階級性)への認識が欠如しているということを理由に激しく批判されたのだった。

にもかかわらず、私達は彼の果してきた役割とたえまのない実践を過小評価してはならないだろう。マックスウェル・ジョーンズの基本的な認識が私達のそれとどんなにかけ離れたものであろうと、状況変革の試論には相違なかったはずである。

(Ⅴ状況のなかの精神医学/状況のなかの精神医学 つづく…)

2023年04月27日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-201

こうして、精神病院がその立地条件のもとにすんなりと機能しているとき、そこに一体どのような医療状況がうまれてくるというのだろうか。

交通不便な山の中に精神病院を作らせ、障害者を隔離しておきながら医療として語る社会復帰云々も何もない。このとき例えば、交通不便な場所にしか精神病院は作れなかったはずだというのはとんでもない論法なのであって、それは各々の条件下でどこにあっても苦しい状況に追いこまれている精神病院変革の運動が既に身をもって明らかにしていることである。

精神医学を、真に狂人と共にあるものとして把握するための一つの方法として、私達は状況のなかの精神医学の措定を希求してきた。このとき、私達の最初の共感は当時全世界的に吹きあれていた精神医学概念への挑戦、すなわち反精神医学運動に注がれたのだった。R・D・レイン、D・クーパー、T・サス、などといったそれぞれ細部の論点ではかならずしも一致しない人物達の鋭く激しい主張は私達の精神科医としてのアイデンティティを確実にゆるがしたのであった。

しかし、あれほど激しく吹き荒れた反精神医学運動も一九七五年頃から下火になっていった。原因はいくつかあげられるだろう。各々の理論がその実践を通して鋭くためされることによって、反精神医学を主張する一人一人の基本的認識が遂に離反していってしまったこと、状況の変革を主張しながら、あまりにも巨大な権力構造の前にたたきつぶされてしまったこと、変革をラディカルにラディカルにと突きあげていった人々が、遂に抑圧をされる側の狂人と大衆の支持をも見失ってしまったこと………………。

しかし、こうした反精神医学の変遷は決して絶望的な状況を描き出している訳ではない。R・D・レインがますます抽象化された意識の深奥に下降して行き、D・クーパーがそれとは正反対に自己を中心として至るところでの反権力的な組織作りを目指していこうとするとき、私達に提供してくれる多くの理論的・実践的認識の所産は過去に根ざしているのではなく人間の豊かな未来を指向しているのだから。

(Ⅴ状況のなかの精神医学/状況のなかの精神医学 つづく…)

2023年01月07日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-200

状況のなかの精神医学

現在、私達が日常生活の諸層のなかで、人間の狂気について語り、狂人(ありえね)について触れ、この狂気をとりまく最も蓋然的な方法論としての精神医学に関与するとき、それはまさに人間の精神障害を現代日本の医療的、経済的、政治的、法的状況として把握すること以外のなにものでもない。

狂人(ありえね)とは、まさしく古典的に疎外(ありえね)以外のなにものでもない、と言い切ることとは別に、現在もなお進行中の現実的収奪の構造としての医療状況に私達は目をむけなければならないのである。だから、ここでは精神医学そのものも状況論としてしか定位できない。

かつて、はなばなしく狂気の復権が唱えられ、<症状>としての狂気が人間の深奥を照すものとしてもてはやされた。それはそれで事実なのだろうが、私達はこうした文学的レベルのなかでは、遂に狂気さえも狂人からみごとに奪いとられてしまうという苦い構図を手にしただけであった。さらに、私達は一歩足を踏み込んで状況論として狂人を見つめ得る地平にまで達してしまったというべきかも知れない。(前章の「私的表現考」にその間の私的状況は詳述しておいた。)


人が精神病院(その80%以上が私立精神病院である。)に何らかの理由で足を踏み入れることがあったならば、まずその人は精神病院の立地をめぐってひとまわり歩いてみるとよい。精神病院の立地条件ほど、その精神病院の内部の構造を象徴しているものはない。それは、その精神病院の歴史をもの語り、その精神病院の質をもの語り、その精神病院の地域における機能をもの語っている。

そして、このことに関する認識がなければ私達はその精神病院の内部で行われている精神病者に対する<医療>について何事も触れることはできないのだ。

さらに、視野を広めて、何故このように精神病院が地域の一区域に偏在し、なおかつ乱立しているのだろうかと問い続けるとき、私達の認識は精神病院をめぐる経済学と治安管理を中心とした国家的規模での法的政策の問題とにまで直結してしまうのである。

(Ⅴ状況のなかの精神医学/状況のなかの精神医学 つづく…)

2022年11月29日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-199

私はいつも、レインの表現に接する時、二人の人間のことを考える。その一人は、松下昇のことであり、もう一人はフランツ・ファノンである。かつての、神戸大闘争の中での松下昇の表現のことを私はまだ忘れないでいる。フランツ・ファノンについての私的解釈は、折に触れて、雑誌『詩学』に連載中の「私的表現考」に書きつづり、またこれからも書き続けていくつもりである。

レインは語っている。

「詩とよばれるものは、おそらくコミュニケーション、発明、受胎、発見、生産、創造等の合成されたものでしょう。あらゆる意図や動機の競合を通して一つの奇跡が生じたのです。太陽の下に新しきものあり、というわけです。存在が非存在から湧出したのです。まるで泉が岩からわき出るように。」(『経験の政治学』)

これから、私達の行うべき作業は厳しい状況の壁に囲まれて、暗く展望がないもののようである。だが、私達は一生涯かけて作業をやり抜かなければならない。激しい愛情を持って、そのあとは、私達が生み、育てた、次の世代がその作業を引き継いでくれるだろう。

(Ⅴ状況のなかの精神医学/何故、今、レインなのか? 終)

2022年10月31日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-198

現在、私達は激しいい内部の声にせきたてられるようにして、私達自身のものとしての表現論を求めている。外部における状況的疎外の構造が、内部の疎外を屹立させる。疎外は現象として存在するものではあり得ない。

あらゆる権力構造を拒否し、かたくなに人間的生き方に傾斜する表現が、私的に言えば「存在の最も原初的な姿であるやさしさ」に裏付けられる日のために私達は新しい表現論を求めているのである。一つの表現論が、全体として、一つの人間論となり、一つの状況論となり、私達の日々の生活の中で内化される真の唄となる日のことを私達は夢みている。断じて夢ではない夢を。

レイン等による反精神病院=キングスレイ・ホール、クーパー等による反精神病棟=ヴィラ・21、そして今日全世界に存在しはじめた多くの共同体の実践が、私達に厳しい問いかけを行ってくる。私達は休んでいることは許されない。だが、私達は<運動>とか、<闘争>を語っているのではない。私達が語るのは常に<人間>についてでなければならないはずなのだ。

レイン自身が、自己の表現論を内化していく過程で、切ないほどの想念と願いをこめて、表現論のなかの二重拘束を打ち破ろうとする作業が、やはり『結ぼれ』という詩集(表現集)の持つ使命であった。


人は内側にいる
それから これまでその内側にいたものの外側へ出る
人はからっぽな感じがする
なぜなら自分自身の内側にはなにもないからだ
自分がいまその外側にいるものの
内側に入り込もうと、ひとたび試みるやいなや
人はたちまち自分自身の内側に
――人がかつてその内側にいたところの
外側のむこうにあるあの内側に――
入り込もうと試みるのだ
食べようとして、また食べられようとして
外側を内側に持とうとして、そして
外側の内側にいようとして

(Ⅴ状況のなかの精神医学/何故、今、レインなのか? つづく…)

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