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墨岡通信

成城墨岡クリニック分院によるブログ形式の情報ページです。

2022年09月29日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-197

このような形でのレインの方法論は、コミュニケーションの問題、言語の問題、対人関係の問題等を経て、より根本的な表現の問題へと近付いていく。それは、人間存在の本来的在り様をめぐる表現論の地平である。そしてレインはこの表現論のなかで、確実に存在と認識の二元論をのり越えるための一つのいき方を獲得したと言えるのである。

レインに対する批判としてよく聞かれるものは、レインが分裂病として引きあいに出す症例は、分裂病ではなく分裂病様反応にすぎない、あるいは分裂病質者の反応にすぎないのではないかという議論は、もはやはじめから意味のないもなのである。


「言語において、かつ言語をとおして表現された、言語形成以前の沈黙は、言語によっては表現されえません。けれども言語が言語自らが言い表すことのできない事がらを伝達するために、言語の間隔、空白、言い間違い、縦横に組みあわされた構造、構文、音、意味などを用いる、ということは可能です。音の調子と音量を調節すれば、行間にこめられている意味の明言を避けるという、まさにそのことによって、その形態は正確に叙述されます。」(同前)

レインはさらに、この表現論の基本的意味について次のように、述べている。

「問題は何ものかを無の中に注ぎこむことではなくて、無から何ものかを創り出すことなのです。虚無からなのです。創造がそこから湧出してくるところの非事物つまり無は、最も純粋な場合には、空虚な時間といったものではありません。

非存在は、言語が表現できるぎりぎりの限界のところにあります。けれども、言語が言い表わすことのできないことを言語が言い表わせないのはなぜかという理由は、言語によって示すことができます。私は言い表わされえないことを言い表わすことはできませんが、しかし音があるから私たちは沈黙に耳を傾けることができるのです。」(同)

(Ⅴ状況のなかの精神医学/何故、今、レインなのか? つづく…)

2022年08月27日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-196

レインは、発達心理学、自我心理学とは異った立場から家族関係論を展開してきた。『狂気と家族』、『家族の政治学』等を通して家族相互関係のモデルと、家族全体の歪み、そのなかで形成される「分裂病」、家族全体の歪みの結実としての病者(Identified person)等々の問題を提示してきた。こうした一連の家族関係論の中から、レインが後に存在と認識の二元論を飛び越えてしまう方法論がはぐくまれるようになったのである。

その最初の展開はやはり、一九五六年にグレゴリイ・ベイトソンによって提示された二重拘束の理論の導入である。ベイトソンはニューギニアの文化人類学的研究のなかから二重拘束理論を発見したが、レインはまず、家族関係論へ、そしてさらに対象関係論へと精力的に押し進めていった。

例えば、二重拘束の最も簡単な例は親が子供に対してある行為をとろうとするとき、言葉によっては子供に対して許容的、肯定的であるにもかかわらず、顔つき、身振り、態度その他非言語的表現によっては拒否的、否定的な場面に子供が直面させられ、そのいずれの選択によってもジレンマに陥らざるを得ない時、その子供はその親から二重拘束を受けている。

「ベイトソンはこのような、解決不能の『如何ともしがたい』状況という範型をつくりだしたのです。これはとりわけて自己のアイデンティティ(同一性)にとって、つまり自己が自己であることにとって破壊的な性質のものであって、分裂病と診断される人の家族内コミュニケーションのパターンに関係があるとされました。」(『経験の政治学』)

「われわれは、一人の人間が分裂病と見なされるようになるときの社会的出来事をめぐる現実状況を研究したのですが、それらのケースにおいて、分裂病というレッテルを人びとに貼らせることになった彼らの経験と行動とは、例外なくその人間が行きうべからざる状況を生きるために発見した、とっておきの戦術であるように、われわれには思えるのです。その人間は自分の生活状況の中で自分が自分をまもりがたい位置にあると感じるようになっていきました。彼は動くことも動かないでいることも、ともに出来ない。」(同前)

(Ⅴ状況のなかの精神医学/何故、今、レインなのか? つづく…)

2022年07月29日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-195

存在の問題を主観内部の問題としてとらえるということはむしろ当然の行為ですらあるが、レインはこの地点を一歩踏み込んで、状況と自我とのかかわりあいのなかに存在の論理学を持ち込もうとする。内部的存在の深さ、内部的宇宙の巨大さ、人間存在のはかり知れない広がり、こういった解釈を人間関係論として押し拡げていくとき、当然のことながら私達は心的現象の内部そのものとしての“疾患”ににつきあたる。自我心理学も、精神病理学も、まずはじめに欠落症状としての“疾患”によって規定されている以上、宿命的なことである。だが、レインは他の人間学的精神現象学の先駆者達と同じように、“疾患”という概念も、従って“治療”という概念も持とうとしない。そこにはただ状況によって規定された存在の問題が露呈されているだけであり、人間存在の根底は恐ろしく深いのである。

「私が今ここで分裂病という用語を使うときは、身体的であるよりはむしろ心的と想像されるような、なんらかの状態を指して言っているのではなく、また肺炎といったような、一つの病気を考えて言っているのでもないのです。そうではなく、この用語は、或る社会的状況下にあって、或る人が他の人々の上に貼りつけるレッテルだと私は考えています。『分裂病』の『原因』がもし見つけ出されるとしたら、それは将来分裂病と診断されるはずの人、その人だけの検索からではなく、そういう精神医学的儀式がそこで行われるような社会的脈絡全体を検索することによってであります。」(前同)

存在と認識の二元論、自我と状況の二元論、内部と外部との二元論、これを一気に短絡させ人間存在を全体として(as a whole)把握する論理学こそレインの試行の目的であった。だが、レインはこの作業のために決して無意識とか、純粋経験とかの微細な現象を問題とする訳ではなかった。これらの、微分的方法、或いは“水平の弁証法”(橋本克己)による解釈学にたよらないで、レインが用いた方法論はいわば積分的方法である。

(Ⅴ状況のなかの精神医学/何故、今、レインなのか? つづく…)

2022年05月26日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-194

無論レインも、精神分析の流れをまともに受けることから出発した。しかし、レインは次第にクライン等への批判に傾き、自我心理学の構成そのものにも批判的になっていく、自我心理学の再検討、発達心理学批判、対象関係論の再検討、と精神分析の大きな支柱に次々と疑問をなげかけていくレインの作業は、クーパー等が述べるように「反精神医学」と呼ぶにふさわしい迫力に満ちていた。

「最も根源的に考えれば、人間はそこに存在しているものの発見にも生産にも、あるいはコミュニケーション、発明にさえも参与しておりません。人間は存在が非存在から湧出するのを可能にしているだけなのです。」(レイン『経験の政治学』)

レインが展開してみせる存在の論理学は、単に存在の問題だけを抽象してみるとき、ほとんど革命的なことは述べられていない。だが、レインはこのおそろしく公式的な命題を人間存在の中核的役割を持つ、意識の問題、自我の問題へと強引に直列してしまう。しかも、さらにこの激しい渦は人間の自我と状況との接点にまで及び、状況の論理さえも包み込んでしまおうとするのである。

「理論においても実践においても中心となるのは人間の間の関係です。人間は自分の経験と行動とを通してお互いに他者と関係づけられております。諸理論を、それが経験または行動にどれだけ重きをおいているかという点から、そしてまた、経験と行動との間の関係をどれだけ表現できるかという点から見ることができます。」(前同)

「社会科学研究の理論や記述において用いられる慣用的語句の多くは、一見したところ『客観的』中立性の立場にあるようにみえます。しかしこれがどれほど欺瞞的でありうるかは、私たちのすでに見たとおりです。構文を定め、語彙を選ぶことがすでに政治的行動であって、そのことによって、『事実』を体験するやり方が決定され限定されてしまうのです。」(前同)

(Ⅴ状況のなかの精神医学/何故、今、レインなのか? つづく…)

2022年03月29日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-193

「生涯のうちに、じぶんの職場と家とをつなぐ生活圏を離れることもできないし、離れようともしないで、どんな支配にたいしても無関心に無自覚にゆれるように生活し、死ぬというところに、大衆の<ナショナリズム>の核があるとすれば、これこれが、どのような政治人よりも重たく存在しているものと思想化に値する。ここに<自立>主義の基盤がある。」(吉本隆明『自立の思想的拠点』)

吉本隆明にとって幻想とは例えば次のように語られる。

「人間の本質的な意識作用、つまり意識作用が生活にまつわる念慮・配慮から離脱すればするほどそれだけいっそう意識の固有のはたらきが加速され、増殖肥大してゆかざるを得ないような意識の作用」(遠丸立『戦後文学キーノート・吉本隆明』)

こうして、吉本隆明が幻想の問題をつきつめようとしていくとき、その作業は表現行為論へと収束され、もう一方の極は意識の内部の問題、すなわち『心的現象論序説』へとむかう。表現論の内で、被表現者の論理として定着されていくものは、認識の論理から逸脱した存在の論理の声である。そして、『心的現象論序説』の内で吉本隆明が執拗に追求しようとする作業は存在と状況とのダイナミクスである。

何故、私達にとって存在の問題が重要であるのかは、このような状況の問題と不可分ではあり得ないのである。

そしてまた、例えばフロイト、ユング、ライヒ以後の精神分析的流れにあって、現在的意味での存在(主観=自我)の問題と、状況との問題とを臨床的にもある程度きわだったものとして規定してみせたのがエリクソンであった。だがエリクソンは自我同一性の概念と、自我拡散症候群と名付けた一連の状態とを、社会変動の力学に符合させて一元的に理解し得るという論理をおしひろげるなかで、あまりにやすやすと自我の壁を状況の図式化された在り様で突き破ってしまった。そこには、あまりにも個々のものとしての状況がなさすぎ、従って本来的に個々としての自我については、それまでの自我心理学の領域をほとんど出ることは出来なかった。

(Ⅴ状況のなかの精神医学/何故、今、レインなのか? つづく…)

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