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2024年06月27日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ -2-

『望郷と海』覚え書

おびただしい失語状態とも言うべきものが確かに私たちをとりまいている。逼迫した言語をもって<この苦渋!>と、言葉するとき、私達の感性の総てはある一点を指し続けたまま凍結してしまう。厳として存在する巨大な流通機構と権力と権力構造。その背後に巧妙に位置する影の機構。<対峙せよ!>と、沈黙の内に決意するとき、私達は既にいささかの展望も、いかなる効果も期待していない。私達の根拠を問うとすれば、それは唯一拙劣な国訛でしかない。おそらくは人間にとってぬぐい去り難い魂の国訛。


『望郷と海』は、かつて「私にとって人間と自由とは、ただシベリヤにしか存在しない(もっと正確には、シベリヤの強制収容所にしか存在しない。)日のあけくれがじかに不条理である場所で、人間は初めて自由に未来を想いえがくことができるであろう。」と記した石原吉郎の、東シベリヤ、カラカンダ第二刑務所での認識と生命の存在を反芻する軌跡である。

石原吉郎の表現行為のほとんど極小の片々にしか触れ得ないと思いながら、例えば石原吉郎が次のように述べるとき、私は激しい感動に襲われる。

「ジェノサイド(大量殺戮)という言葉は、私にはついに理解できない言葉である。ただ、この言葉のおそろしさだけは実感できる。ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかに、ひとりひとりの死がないということが、私にはおそろしいのだ。人間が被害においてついに自立できず、ただ集団であるにすぎないときは、その死においても自立することなく、集団のままであるだろう。死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものだ。」(「確認されない死のなかで」)

石原吉郎の詩と多くの散文はただ<表現>としか言いようのないものである。それは本質的に人間の<表現>であってそれ以外のなにものでもあり得ない。

(Ⅰ詩人論/『望郷と海』覚え書 つづく…)

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