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2012年02月07日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-72-
物質的対象は、知覚されることによって存在するにすぎないとバークリーは主張した。「そうだとすれば、たとえば一本の樹は、誰もそれをながめていない場合には存在しなくなるではないか、という反論に対して、彼は次のように返答した。すなわち、神は常にあらゆるものを知覚している。もし神が存在しないとすれば、われわれが物質的対象だと考えるものは、われわれがそれをながめる時にわかに存在しはじめる。といったような気まぐれな生活をするであろう。しかし、実際には、神の知覚というもののおかげで、樹や岩や石といったものは常識が想定しているとおり、間断なく存在しつづけるのである、と。」(ラッセル『西洋哲学史』)
私がここに想定するのは、朔太郎の<近代>をめぐる比喩である。そして、それはただ単なる比喩だけではなく、朔太郎のスタイルの問題なのである。
そして、こうした生活上のスタイルの背後に、一体朔太郎の内的世界に何があったのかというところまで私達はいずれ、歩を進めなければならないのである。
私達は、朔太郎の詩の完成の問題として<近代>の崩壊を議論しているのではない。現代詩であろうが近代詩であろうが、その方法上の完成の問題など、私達にはそれほど重要なものではない。それよりも、その方法を生み出した、個人の内的世界のあり様と、その根拠を求め続けていきたいのである。
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)

