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墨岡通信

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2011年12月24日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-70-

 朔太郎の自我の構造とその成立の由来について、私は前章のなかで触れてきた訳だが、そうした内的な過程をとおしてついに朔太郎は、ある意味では引き裂かれた神経症的な内的世界を定着させていったのである。
 私達にとって周知のものである対象的表象世界を超えて、私達がもともとその上に立っている根拠へと飛躍しようとする内的な要求はついに、朔太郎には芽生えることはなかったと言ってよい。朔太郎が飛躍しようとするとき、現実的な形態となって表われるのは、きわめて擬制的な論理としてであるか、逆により屈折した意識を下降するものであるかであり、そのどちらの場合においても、巧妙に外見をととのえられたスタイルがまず先行しなければならなかったのである。
 朔太郎が、その感情的表現において「主観」として<詩>のなかに、そのとぎすまされた神経を投入していくとき、まず最初に、人間存在は身体的有機性と、精神との集合体として規定され、この集合体という概念は、その時々の世界の他の事象にまじって、前もって存立する空間の特定の場所に現われるはずだという考えを背後に配置させているのである。私達が、その全体で飛躍しようとすれば、それだけで、従来自分自身でつくった謎、つまり、一体いかにして、外的世界の事象が私達の内的世界のなかへたち現われることができるのか、またいかにして、私達自身の内的世界の事象から、それを超越するように超えていくことができるのか、という謎を解く課題から免かれることになるはずである。
 しかし、朔太郎が「主観と客観」という措定を表現し、その内実を定着させようとしたときにも、このような意味における<現代的>飛躍の意味づけは創造されるべくもなかったのである。
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)

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