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墨岡通信

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2011年10月05日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-67-

 朔太郎の自我の深奥は、それら皮相な用語のなかにひそんでいるのではなく、朔太郎の自我形成の事実のなかに、そして朔太郎がまぎれもなく生きた、あの生きざまのなかに言葉としてではなく、どうしようもない朔太郎の寂しさと孤独として定着されているはずのものなのである。
 いま、筑摩書房版の『萩原朔太郎全集』が刊行されることもあって朔太郎への関心が非常にたかまっているという。朔太郎がその時代、そして個人によってどのように読まれるのかは、朔太郎の意図とは第一義的には関係がないことだと言えるだろう。しかし、朔太郎の表現が、その構造として所有する現象への接近という形態は、その表現に接する読者を確実に引き裂くのである。
 読者の、詩人としての生き方を、日常の時間を、そして生涯かけてひきずっていく表現への関与を根本的に引き裂かずにはいないのである。
 しかし、私達は朔太郎の表現を常に、私達の内部でいきいきと、柔軟にとらえかえしていかなければならない。人間的表現の一つの成果として保持していかなければならない。
 全集が完結するたびに巨きな権威をもつかのように朔太郎をとらえかえしてはいけないのだと思う。朔太郎自身の同一性の問題を私は論じている訳だが、朔太郎の表現のあとを追って朔太郎の存在そのものを私達のレッテル化させてはいけないのだ。
 私達が求める表現の可能性の一つが、豊かな人間的解釈を多様に提供することによって、私達自身の状況へと関わりあうことだと考えるのだけれども、朔太郎もまずこのように私達の目前に存在するのだ。
 そして、それこそが内的・外的な抑圧と関与に対峙して表現を生きのびさせる方法であり、現象学的と私が呼びならわすところの内的な世界の意識的表出の姿なのである。
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)

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