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2011年09月13日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-66-

 何度も述べるように、内的な自我、“精神的自我”が自覚的に形成されるのは、対人関係の存在様式のなかにおいてであり、他者との実践的な関わりあい、開示性の場面ではじめて成立するものである。
 サルトルが『存在と無』のなかで提示した人間関係論のモデルとテーゼは、自我が他者のまなざしのなかでさらされることによって、すなわち「他者にとっての一つの対象的存在になっており、自由な超越を奪われている。」ということによって対他的に生育することの実証であったことを想い出す。しかし、サルトル的自我の帰結が、「意識個体の相互間の関係の本質は、共同存在ではなくて、相剋なのである。」と表わされ、人間関係は、所詮“サディコ・マゾヒズム”の埒を超えることはできないと思考されるとき、そのようなサルトル的自我とはまったく異なった自我の存在を想定しなければならないときがある。
 このような場合の一つの型が、Labelingとしての自我同一性の問題のなかに含まれているのである。この場合においても、対他的な人間関係のなかで、自分の役割的自我を看視する“まなざし”としての他者、そして超自我といったものの存在は確かなものなのであるが、内的意識の関係性は、まるで糸のきれた凧のようにすべての相互間の関係性を脱落させたまま、そしてあらゆる循環運動から離脱することによって、ある一つの“Label”のなかに自我を埋没させていくのである。
 「病人としてしか生きていけない人間」、そして朔太郎のように「<詩人>としてしか生きていけない人間」が確かに存在するのである。
 朔太郎の自我形成の背後に、対他的な超自我としての、そして“まなざし”としての父の存在があったことは事実であるとしても、それだけで朔太郎の精神的自我を解釈することは不可能なことなのである。
 朔太郎における“サデイコ・マゾヒズム”も、“自己愛”もそれ自体として完結した意味づけを可能とするものではなく、むしろ、前述したように、幾重にも内的な現象の過程を経て、非常に屈折した形としてはじめて内在化されるものなのである。
 その意味からしても、私達は朔太郎の述べる実に多彩な精神病理学的な異常性のあげつらいに目をうばわれてはならないのだ。
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)

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