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2011年08月31日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-65-
父の要請と、その頃の朔太郎の心情を、朔太郎自身は次のように語っている。
「『何でもいいから目的を立てろ』父はかう言つて絶えず私を責めました。実際私にはその目的が見つからなかつたのです。その後他から強ひられていやいやながら高等学校に入りましたが、私は全く学課を軽辱しました。そして今に至るまで私は何の理想も目的も見出すことはできません。しかも目的なしに生きていることがどんなに辛いことだということはあなたにも御推察になることと思います。
朝から晩まで私を悩み苦しめるものはただ一つの思想です。『何のために?』『何の目的で?お前は生きてゐるのだ?』これです。私は何度も自殺を思ひました。それほどこの問題は執拗に私を苦しめて居るのです。」
(「高橋元吉宛の手紙」)
青猫を書いた頃は、私の生活のいちばん陰鬱な梅雨時だった。その頃、私は全く『生きる』ということの欲情をなくしてしまった。といって、自殺を決行するほどの烈しい意志的なパッションもなかった。つまり無意とアンニュイの生活であり、長椅子の上に身を投げ出して、梅雨の降り続く外の景色を、窓の硝子越しに眺めながら、どうにも仕方のない苦悩と倦怠とを、心にひとり忍び泣いているような状態だった。
その頃私は高等学校を中途で止め、田舎の父の家にごろごろしていた。三十五・六歳にもなる男が、何もしないで父の家に寄食して居るということだけでも残ましく憂鬱なことである。食事の度毎に、毎日暗い顔をしている両親と見合っていた。……父は私を見る毎に世にも果敢なく情けない顔をしていた。私は私で、その父の顔を見るのが苦しく、自責の悲しみに耐えられなかった。こうした生活の中で、私は人生の意義を考へ詰めて居た。人は何のために生きるのか。幸福とは何ぞ、真理とは何ぞ、道徳とは何ぞ、死とは何ぞ。生とは何ぞや。
私は無限の懐疑の中を彷徨していた。どこにも頼るものがなく、目的するものがなく、生きるということそれ自身が無意味であった。」
(青猫を書いた頃)
ここには、朔太郎の自我が発達してきた位置が端的に表現されているといえるだろう。
朔太郎はやはり、<詩人>になるしかなかった人間なのである。
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)

