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2011年08月19日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-64-
私は、前述したように、朔太郎の内的な世界の構造は、決して開花されることのない、非共同性を持つということを強張したいのである。
そして、朔太郎の表現とは、内的に開花されることのなかった人間が、豊かな天賦の創造性をもとにして、現実的世界に自己の生存をとどめようとした一つの結論であるように思えてならないのである。
まさに、この意味で、朔太郎の表現は、内的現象の剰余によって規定された抽出物、Residue of Residues(T.J.Seheff)といってよいものかも知れない。
T.J.Scheffは、レッテルはりの理論(Labeling Theory)について、強調している。
(ⅰ)レッテルという紋切り形の思考が子供の頃から、社会的に学ばれること。
(ⅱ)しらずしらずのうちに、そのレッテルの概念が、その社会において強化される構造である。
(ⅲ)レッテルによる内的・外的な報酬の存在。
(ⅳ)レッテルによる内的・外的な罰の存在。
(ⅴ)そして、ついにそのレッテル自体がすべての存在様式の原点となること。
朔太郎の内的世界のなかで、どのような形で、詩人としての強固な自我同一性が発達してきたのかということは、今後の分析の課題であるはずである。とおり一ぺんの朔太郎の伝記とか生存の記録だけでなく、内的な世界の現象学的な記述こそが、その責任を、果たすことができるだろうことは、断言できる。
そして、それはこのようなノートとしてではなく、私が自分の手でいつかはたし得たい仕事の一つであるように考えているのである。
このときに、最初の原初的な出発点となるのは、何回もくり返す<朔太郎=母>体験であり、それが、思春期に於いては、次第に、母に対峙する父からの外的な(父はついに、朔太郎の生存のなかで、内的なものとなり得なかった。そして、また同時に、朔太郎の幾多の女性関係を通じて、結婚生活を通じて、あらゆる母以外の女性は、内的なものとはなり得なかったのである。)要請としてみることができる。
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)

