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墨岡通信

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2011年07月14日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-62-

 この話は、朔太郎の創作であるということだが、そんなことはともかく、ここには自分の心的世界を軸として、日常から出来る限り遠くへ飛ぼうとした人間のみが共有できる“現象”が描き出されている。朔太郎もまた自己の日常から、遠く遠く飛ぼうとした人間の一人だったのである。
私は、朔太郎の内的世界の構造的根拠を、詩人としての自我同一性への固着という観点から論じてきた。そこで、その構造の心的ダイナックスの原点を、<朔太郎=母>体験としてとらえてきた。ここで、そのことの意味をより詳しく読みとることにしたい。
 今まで述べてきたように、自我同一性への固着という現象は、私達にとってきわめて重大な問題として提供されているものなのであって、単に所謂、精神分析学に於ける一つのキイワードであるにとどまらず、人間学的にも重大な課題を含んでいるといえるのである。
 自己の<詩人>という概念規定のなかでしか、まず原初的に詩人として名乗れない生き方、そして、すべての自分の行き方、すなわち、あらゆる行動の非常識性、非凡性、そして感性の異常性を、<詩人>としての自我同一性のなかで許容し、拡散させていこうとする生き方、それらすべての免罪符として、<詩人>という自我同一性が存在するとき、それはすでに、この<詩人>という自我同一性が、一つのレッテル(Labeling)として朔太郎の生涯を彩っていったのである。
 このとき私達が遭遇するあらゆる精神障害が、その原因論をひとまずアポケーするとすれば、すべてのレッテルはりの構造は内在的に保持するということを思うべきである。
 レッテルは、第三者から規定される場合(Stigma)もあり得るし、自己自身によって自己を規定してしまうこともあり得る。そして、何よりも現象として重大なのは、外的な要因とは直接には結びつかない内的な経験として自己自身をそのはるかなレッテルのなかに非開示的に追い込んでしまうことなのである。(Labeling Theory)
 そして、この自己自身を呪縛するレッテルはきわめて強固なものであることが認められるのだ。
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)

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