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2011年05月22日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-59-

例えば、状況からおびただしい関与をうけながら、しかもなお自己を極限にまで内向させようとする詩人の一人である清水えいは述べている。
 「朔太郎の底なしの不安は、青年期において爆発的にイメージを増殖し、壮年期においては逆に生理の衰退と共に作品が衰退していくのである。『氷島』における無惨といえるまでの人生詩には、青年期の異常で病的な美しさは影をひそめ、ただ言葉の形骸をなぞりながらの、かろうじて唄っている朔太郎の老いた姿があるだけだ。『氷島』を指して保田与重郎は『日本近代の慟哭』といったが、生理に宿ったが故の無惨な敗北でしかなく、時代認識の欠落がもたらした結果、朔太郎の作品は行き場を失っての慟哭どころか、すすり泣きにしか過ぎなかったのだ。」(「すすり泣きの朔太郎」)
 そして、一方では、吉増剛造は次のように述べるのだ。
「『月に吠える』『青猫』があってはじめて、あの悲愴な『氷島』が生きてくるのは勿論だが、朔太郎の作品系列を『氷島』を処女作に逆にならべかえてみると、朔太郎が感じていたであろう自責と無念さ、そして朔太郎をとりまく小天地がその狂暴な貌をあらわすようである。しかもそのことは朔太郎自身によって「『氷島』の詩語について」のなかに語りつくされているとおもう。『氷島』のポエジーしている精神は、実に「絶叫」という言葉の内容に尽されていた。」(「氷島・下北沢」)
 このようなRip-offは現象学的な方向性をもった表現というものは、単純に作者・表現者のものとしてあるのではなく、その詩・表現に接する、読者としての詩人の内的な意識の諸層のなかで、はじめて、一定の、そして豊かな方向性をもったものとして定着されるのだということをよくあらわしている。
 それは、単に想像力とか、創造力とかの範疇を超えた問題であり、個人の状況的(外的)関係と、内的な抑圧との間に懸垂した宿命的な人間個人の生きざまの世界からの投影であるはずである。
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)

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