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2011年05月08日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-58-
それは、例えば次のようなことにおける関わりとして理解されるであろう。
私が常に述べるように、方法的には、内的な抑圧=抑圧的な内的経験と、外的な抑圧=外的な状況との間の質的な転態を可能にしているものこそが、個人の意識の問題として、状況的な主観としてある共同主観としての表現行為である。そして、そこには私達の最后的な課題であるところの、人間的意識の内的な関与を、状況的な関与へと導き入れるという企図への可能性がこめられているはずなのである。
だからこそ、まず私達が問題としたいのは心的な現象といった記述へと深くかかわる表現の所在である。
朔太郎が、私達にとって心をひきつけられる存在であるのは、朔太郎の表現が、まさに萩原朔太郎という詩人個人の心的、現象学的な記述という側面を内包しているからである。
そして、朔太郎という詩人が、近代詩・現代詩の発達のなかでさん然と輝く存在であり得たのは、単に詩的天才のためでも、非凡な感性のためでもなく、朔太郎の詩的表現が鋭く直接的に依存していた現象学的な方法によってだと言うことができるのである。
だから、朔太郎の詩集が、その“詩的完成”をめざして構築されていく過程において、その詩的表現が現象学的に対象化しようとする内的世界の振幅によって、私達が受けとめる作品としての評価は、朔太郎自身の意図とはまるで関わりなく、大きく分散せざるを得ないのである。
それが、まさしく詩集『月に吠える』から、詩集『氷島』への外形的な巨大な距離の意味なのであり、そして同時に朔太郎にとっての詩と、彼のアフォリズムとの関係の意味なのであったはずだ。
朔太郎の詩は、方法的にその焦点をいくつかに移しながら、現象学的な表現の記述の方向へと遡行していったのだと私は思いはじめている。
だから、『月に吠える』の評価と、『氷島』の評価とが(相対的に)まったく相異なるものとなることもあり得るということは特別に驚くにはあたらないように思う。それよりも、私の注意をひくのは、例えば個々の現代詩人の朔太郎へのかかわりあいかたのなかで、こうした二つの評価が、決定的に現代詩人の生き方そのものに密着した形で、詩人を二分極化せしめるということである。朔太郎の詩の多面性によってひきさかれるのである。
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)

