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2011年04月28日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-57-
M・ボスは次のように語ったことがある。
「存在しなければならないもののための、現出の場所として要求されていることのうちに、人間実在の意味があります。それに従えば、人間は、成仏を許されるように、その実在をまっとうすることができます。しかしながら、もし彼が自分の自由を、この意味を拒否することに利用すれば、彼は、自分の現存在にいつもなにか負目をもちつづけます。この実存的に負目のあることに、健康であろうと病的であろうと、あらゆる負目の感じと良心の呵責とが根ざしているのです。」
ここで述べられているのは、心的現象としてのメランコリーの発生を開示性の問題として捉えることである。そして、それは同時に人間存在のもつ開示性という根本的様式を、母性との一体感のなかに体得する生き方の分析である。
その間の問題を、ボスは「精神分析と現存在分析」の中で述べている。
「現存在分析の観点からみれば、彼のものであり、それでもって彼が委託される生き方の諸可能性を、彼自身の上に責任もって引きうける意味で、彼自身であることに決して開いたことのない……。」
ところで、私達はなぜ朔太郎の表現にこのようにまで心をひかれるのであろうか。なぜ、朔太郎が私達にとって問題とならなければならないのだろうか。
朔太郎の内的な世界、自我の構造が、私達の希求する自我の構造とはまるでかけはなれたものであること、そして、朔太郎は、個人の心的現象のなかにおいても極端に開示性の閉ざされた存在であるということは、現在まで私が述べてきたことの一面での方法的結末でさえあるように思われる。にもかかわらず、なぜ私達は現にこのように、朔太郎を避けてとおれないのだろうか。
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)

