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2011年01月08日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-52-
朔太郎の孤独は、まず第一に彼の生涯を通じて支配的であった母ケイの抑圧からの自律の契機として存在し、同時にそれは自分の表現を正統な位置に評価し得ないできた近代日本文学=自然主義リアリズムに対する抵抗によって存続した内的な現象であった。
朔太郎の第一詩集『月に吠える』の巻頭にあの、「地面の底の病気の顔」が置かれたことの意味を私はもう一度かみしめてみたいと思うのだ。「地面の底に顔があらはれ/さみしい病人の顔があらはれ。」という表現は、朔太郎の生の深層部=内的現象のある原初的な体験を暗示している。そして、それは母親と共生し母親のシステムのなかでしか生きられなかった少年フィリップがある日突然に水たまりのなかに自分の顔と空とを見出すことによって母親の子供ではなく自分自身であることの直観にうたれるという。D・クーパーの「家族の死」のなかの<症例・フィリップ>にも通じるものであるように私には思われるのである。
朔太郎のアフォリズムに欠落している思考と語句があるとすれば、それは、「母親以上に完全になることは出来ない」という一語であったように思うのだ。
女性に対して辛辣でいかにも挑発的なアフォリズムを書きながら、一方では、
「しとしとと降る雨の中を、かすかに匂つている菜種のやうで、げにやさしくも濃やかな情緒がそこにある。ああ婦人!婦人の側らに坐つてゐるとき、私の思惟は湿ひにぬれ、胸はなまめかしい香水の匂いにひたる。げに婦人は生活の窓にふる雨のやうなものだ。(「婦人と雨」)」(「新しき欲情」)
と表現した朔太郎の情感の二重構造こそ、朔太郎の孤独の意味を解く鍵である。
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)

