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2010年12月24日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-51-
おびただしいアフォリズムのなかで、朔太郎は幾度となく同じ題材をくり返しながら、自己の詩人である所以を書き綴ってみせる。それは、まさしく詩人としての自我同一性を客観として開示する方法の形態であったはずである。
だから、朔太郎は、結婚・母性・恋愛について言及しながら、また家・父について触れながら、朔太郎の立場とスタイルは常に辛辣でさっそうとしたものであり得たのである。
「すべての親たちは、真にその子供を愛してゐる。けれどもけっして同情はしない。彼のずつと幼ない子供に対して
も。または年頃の息子や娘に対しても。」(「愛の一形式」『虚妄の正義』)
「男と女とが、互いに相手を箒とし、味噌漉として、乳母車とし、貯金箱とし、ミシン機械とし、日用の勝手道具と
考える時、もはや必要から別れがたく、夫婦の実の愛情が生ずるのである。―――愛!あまりに巧利的な愛! (愛――
あまりに巧利的な)」(『同前』)
「想像力の消耗からも、人はその家庭を愛するやうになつてくる。」(「家庭的になる」『同前』)
「すべての家庭人は、人生の半ばをあきらめている。」(「家庭人」『同前』)
こうした表現の背後にある朔太郎の実生活について想いをめぐらすのはそれほど意味があることではない。
しかし、近代日本の自然主義文学に対する強い反抗をモチーフとして、朔太郎のアフォリズムが生まれたとしても、このように書きつけた詩人の内的世界の絶望的な孤独と、その孤独をおぎなおうとする強固な自我機能をここに認めることができるのである。
朔太郎は、同じ『虚妄の正義』のなかで次のようにも語るのである。
「人が家の中に住んでいるのは、地上の悲しい風景である。」(「家」)
そして、「港にて」には次のような表現もある。
「父といふ観念は、今日に於て一つの天刑観念である。この問題は、人間の最初の過失(原罪)が、何故に刑罰されね
ばならなかったかといふ、基督教のイロニックな神恩思想に於て、なるべく慈悲深く解釈されねばならない。」(「父」)
ここに語られるものもまた、「独りぼっちの虚無感と寂寥感」である。
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)

