成城墨岡クリニックによるブログ形式の情報ページです。
2009年05月27日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-33-
私は粒来哲蔵の詩を≪自己攻撃≫の投影であると規定した。このことの意味について最後に触れておきたい。
あらゆる意味で、現代は詩にとって苛酷な凍結の時代であることは確かである。もはや、詩の方法論はいかにも無力である。だがこうした外在的、内在的条件の中で私達は何故なおかつ詩を書いていこうとするのだろうか。この問題についての一つの解答を私は次のように考えている。詩を書くということは、一枚の原紙の上に≪状況≫をつくり出すことである。まぎれもなく自分が生きている、その根拠をみすえて、奈落の底に落ちようとも見つめうるという生き方を、鋭く日常に対峙させることこそ詩の原理なのではないか。
現代においては、自己を自己の名においていかに砕きつくしていくかという、強烈な意識こそがあらゆる詩論の原理なのではないかと私は考えている。人間らしく生きるという言葉が、実はこのタナトス的意志にささえられなければ成就されないほど私達は激しく表現の所在を求め続けているのだ。だからこそ私は≪自己攻撃≫の構造を表現論の基盤に据え置こうとしている。そうでなければ、吉本隆明がかつて述べたように、被表現者の論理はいつまでも暗闇の内に追放されたままなのだ。
「わたしがもっとも関心をもつのは、決して<みずから書く>という行為では語られない大衆の<ナショナリズム>である。この関心は<沈黙>から<実生活>へという流れのなかで消えてしまって、ほとんどときあかす手段がない。」(吉本隆明「自立の思想的拠点」)
詩のつくり出す≪状況≫こそ、あらゆる人間関係の共同性の原点であり、同時にあらゆる個別性の原点でもある。詩は≪状況≫そのものであるが故に、人間の生み出すあらゆる場所を既に所有しているものである。そしてなかんずく、人間個人のなにものにもかえがたい≪生きかた≫を。
粒来哲蔵は詩集『孤島記』のあとがきで述べている。
「私の島の想念を拡げてみると島でない土地はなく、自らに荷した流謫の地はどこにでもあり、死と性にかかずらう劇は絶えずかいまみることができた。従って幻想の劇の主役はつねに『私』であり、私をとりまくものもまた陸封された『私』だった。」
粒来哲蔵の詩句は比類なく鋭く、限りなく美しい。
(Ⅰ詩人論/我が粒来哲蔵論終わり)