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2009年03月18日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-23-

詩集『ゴリラ』は昭和35年(1960年)の時代の寓意ではあり得ない。それは現在もなお進行中の内的な出来事の出発である。私も常に、いつの日も私以外の何ものでもないように生きている。状況はいくらでも変化する。時代は悪くなる。だが、それにもかかわらず、山本太郎はこのようにしか生きられない。それが、私達の大きな救いである。



私的『死法』考


「敵はきみたちを恐れている。きみたちはそのことを裏切ってはならない。」
と、ルネ・シャールは書きとどめた。
「敵を恐れるな――やつらは君を殺すのが関の山だ。
友を恐れるな――やつらは君を裏切るのが関の山だ。
無関心なひとびとを恐れよ――やつらは殺しも裏切りもしない。だが、やつらの沈黙という承認があればこそこの世に虐殺と裏切りが横行するのだ。」


と、石原吉郎はヤセンスキーの語句を自己のノートに記している。
だが、『死法』の中で山本太郎は書いている。


斃すものと斃される奴
とおまえはいうが
抒情的な怒りなど
信ずるに足りぬ
対立という観念は
ほんらい脆弱なものだ
おまえはいったい
だれにむかって敵なのか
まっすぐやってくるものとだけ
確実に出合うと
ほんきで信じているのか   (「敵に関するエスキース」)


言語の階級性などという苦々しい措定をはっきりと突き破ってしまう詩人の生きざまについて想いをはせても、なおかつ山本太郎のこの屈折した表現の行き方は私をとらえてはなさない。


死を法則に変える将軍の習性と
敵だけがおまえの生を
証明するという
演劇的な思想も
ことのついでに拒否するがいい
………………
斃れるのがおまえであろうと
おまえの前に立つ一人の兵士であろうと
孤立無援の背中で
敵を背面に感じた二人が
怒りを
祖国や将軍に照準する勇気を
もちえなければ
死者よりも深い腐敗が
おまえに訪れるのだ


『死法』は、その表面の多産性にもかかわらず実に息苦しい詩集である。ここには、山本太郎という詩人が、目に見えぬ巨大な機構に対峙したまま次第に言葉を失っていく過程が壮大に記されているのだ。
(Ⅰ詩人論/山本太郎論つづく・・・)

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