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2009年03月15日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-22-
廃虚とゴリラ。詩人とゴリラ。このゴリラはアフリカのゴリラでもなければ原始のゴリラでもない。山本太郎の他のどの詩にも描き出されたことのない苦悩と、不安感がここには色濃く存在している。山本太郎が実体として自我の一体感を求めながら、しかもその自我を支える<自己愛>の分裂を予感しなければならなかったとき、既に魂の寄りどころなどどこにも存在しはしないのである。
<詩人・男>と、<狂女・女>との出会いがある。例えばこの時、人間の出会いとは何なのか。こうした設問はここでは意味がない。ここには幻想的一体感を喪失した人間の深い唄があるだけである。
M・ボスは述べている。
「現存在分析の観点からみれば、彼のものであり、それでもって彼が委託される生きることの諸可能性を、彼自身の上に責任をもって引きうける意味で、彼自身であることに決して開いたことのない……」(Peychoanalysis and daseinanalysis)
山本太郎は心的に深い傷を背負っている詩人である。そして、この傷は<自己愛>を軸として喪失体験を想像させるのだ。山本太郎が営むすべての行為、その桁はずれた開放性、生存への熱烈な希求、そして垣間見せる寂しさ、これらのものは総じて山本太郎を詩人として支えている巨大な内的defenceの所在であり、表現への結び目である。多くのシュールレアリスト達が、かつてあどけない退行のなかにカーニバルの躁狂にも似た抑圧除去の方法を無意識的にとりいれていたことを私は思い出す。アンドレ・ブルトンはマッチをカリカリかじったし、リブモン・デセーニュはいつも「頭蓋の上に雨が降る」と言ってわめいたし、アラゴンは猫の鳴き声もまね、フィリップ・スウポオはツアラとかくれんぼをして遊びあっていた。
現在の私達がどうしても山本太郎の詩を避けて通れないのは、このような内的な深い傷を現実の世界へと投影する真摯なエネルギーに心底から出会いたいと願っているからである。山本太郎の詩も、山本太郎の表現も今後ますます困難なものになっていくだろうことを想いながら、私達は私達自身の表現について考えなければならないのだ。山本太郎の見果てぬ夢を、今度は私達が現実のものとして行かなければならない。
(Ⅰ詩人論/山本太郎論つづく・・・)

