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2009年03月05日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-21-
「カラマーゾフの兄弟の中でイワンが『もし神が存在しなければ、すべてが許される』と言う時、彼は『もし投影された形での私の超自我が撤廃されうるとしたら、私はやましさを感ぜずにどんなこともできる』と言ったのではないのです。彼はこう言っているのです。『もし私の良心だけがあるのだとすれば、私の意志にとって究極的な正当性は全く存在しない』と。」(R・D・レイン『経験の政治学』)
この<自己愛>が崩れるとき、すなわち、山本太郎の意識の内側で、激しく一体であった実体感=存在が喪失するとき、山本太郎の硬直した表現は、詩の世界から現実の認識的世界へ至る遠い予感をこめて、一篇の仮空の構造を描き出す。描き出さないでいられない。
猿が「サル」という同類意識の内側で寸法にあった幸福を食べて育つ
それが革命であったのに
権力に従属しない権力者のいる世界
支配者も大衆もいない世界
みんなが生産者で
いきものの 失われた本能に還る世界
山本太郎の想像力が必然的に生み出したゴリラ王国は、「存在の悲しみ」から自我の崩壊をかろうじてくい止めるために、認識的対象にむけて自己の表現を企図しようとする内的な力動の産物であると仮定するのは誤りだろうか。山本太郎の内的なカセクシス(備給)の所在を私は明確に定めることができるように思うのだ。「おめえの名は カミ、逃げる標的」と記した山本太郎の息づかいがはっきり聞えてくる。
しかし、にもかかわらずこの長篇詩『ゴリラ』が激しい緊張よりも、深い虚無感と不安感によって支配されているのは、山本太郎自身が内的な現実そのものに気付いていないからである。
このような意識の関係についてR・Dレインは語っていた。
「現象学的には『内部』と『外部』という言葉はほとんど意味がありません。しかし、私たちが生きていることの全領域において、人間は言葉に支配される道具にすぎなくなっています。言葉は単に月をさす指のようなものにすぎないのです。今日こうした事がらについて語るのが難しい一つの理由は、内的現実の存在そのものが今や疑問視されているからです。」(同前)
(Ⅰ詩人論/山本太郎論つづく・・・)