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墨岡通信

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2009年02月26日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-20-

私が現在かかわりあっている私達に於ける表現の問題の、最も中核となるべきものが、この存在と認識との接合の問題である。だから私のものとして山本太郎の詩を捉えようとするときここには単なる共鳴以上のものがある。主観の内部のものとしての存在が、状況の側のものとしての認識と、どのようにして一個人の生き方のうちで連結するのかという点、この一点に深くかかわるものとして表現の問題をとらえかえそうとするとき、『ゴリラ』は大きな示唆を与えてくれるものであった。


長篇詩『ゴリラ』は、山本太郎の表現のダイナミックスの第一の基本として存在している<自己愛(ナルシズム)>の最初の結晶であり、同時にその<自己愛>の分解を予期した作品である。それはあたかも、このたいへんなdefenceを背負った詩人の意識の象徴であるようである。


山本太郎が何回もくり返す「存在の悲しみ」とか、喪失した「神」とかいう言葉で、山本太郎がからくも支えてきた内的な状況とは一体何だったのだろうか。


恐らく山本太郎が「存在」と語るとき、その「存在」とは限りなく主観的・肉体的に自我意識と結びついた「私」に関する感覚である。



夢はネアンのトンネル
どこへもとどいていない穴
そこを堕ちる無数の肉片
おちるという意識だけが醒めていて


おおいつ受けとめる<手>がやってくる
毛むくじゃらの<手>はいつくるの



<自己愛>について語るとき、それはまず母性との関係を語ることである。母が私を愛するように、私は私を愛する。だから、<自己愛>とは母性を中心にし超自我形成の問題と不可分のものである。


それ故、山本太郎が「母の胎内で見た永遠の貌の怖しさ」と語りはじめるとき、山本太郎は既に、<自己愛>との幻想的一体感を喪失し、このときまぎれもなく「存在の悲しみ」について触れているのである。


私は思い出す。「穴(ザ・ホール)」について、ウィニコットは乳房をむさぼり吸うことによって無を創造することだと述べていた。
(Ⅰ詩人論/山本太郎論つづく・・・)

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