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墨岡通信

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2009年02月24日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-19-

ゴリラの内的構造


今朝も神という言葉が
冷えきった飲物のように
おれののどをおりていった。
(「行方不明の言葉」)


山本太郎の詩を論じるということはどいうことなのだろうか。私は常に、私個人のものとして山本太郎の詩と出会う以外にはないのだと思う。

山本太郎はきわめて発達的な詩人である。厖大な詩語と激しいリズムを持って、その作品は発達し続ける。山本太郎にとっては、まさに<状況は私の存在が作りだす>ものである。私はかつて、その発達の行手をみすえ、山本太郎の生き方の指向性の一つの極点を、「言葉の喪失」としてとらえた。

詩集『歩行者の祈りの唄』『「糺問者の惑いの唄」そして『死法』は、まさに、この発達過程の道標であった。山本太郎の個々の詩は、山本太郎全体(as a whole)として把握されなければならない。だから、多くのアンソロジーの中で山本太郎の限られた作品だけを記載しなければならないことは、非情なことだと私は思う。とりわけ、詩集『ゴリラ』や『覇王紀』について、スッポリと欠落してしまうのは悲しいことである。これらの長篇詩は、言わば山本太郎の詩の故郷みたいなものであり、前述の詩を山本太郎詩の各論とすれば、後者は総論として捉えることができる。

だから、山本太郎の表現行為をその内的な意識の側から踏み入って、私のものとして理解しようとするとき詩集『ゴリラ』は非常に興味深いものである。『ゴリラ』には、一見して明らかな作品構成上の荒々しい図式とは別に、山本太郎の内側の意識のドラマが極めて基本的に存在しているのである。

さらにつきつめて行くと、詩集『ゴリラ』は、存在の問題の原始的姿と、認識の問題の基本的設定とをあわせもって成立していると言えるのである。
(Ⅰ詩人論/山本太郎論つづく・・・)

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